人革速報

新人間革命での池田先生のご指導に学ぶブログです。

新人間革命 雄飛(24)|2017年7月12日

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 五月三日、関西文化会館では、「創価学会の日」記念勤行会が開催されることになっていた。開会は午後一時の予定であった。
 しかし、朝からメンバーは喜々として集い、周辺は、人であふれた。しかも、ほとんどが勤行会の入場整理券を持たない人たちであった。実は、長崎、福岡に学会員の親戚や友人がいる関西のメンバーは、電話で、山本伸一の激励の様子を聞いていたのだ。その話が瞬く間に広がり、皆、伸一に会いたい一心で集って来たのである。
 関西の幹部や運営役員たちは、急遽、対応を協議した。第二会場の文化会館隣の別館四階にも、入場整理券のない人を誘導した。
 伸一が、大阪府豊中市の関西牧口記念館から関西文化会館に到着したのは、午前十一時前であった。彼は、館内にいた役員らを次々とねぎらっていった。
 同志は、熱い求道の心を燃やして、続々と集って来る。安全を確保するため、別館前の門扉が閉められた。
 しばらくすると、伸一が外に姿を現した。大歓声があがった。彼は門扉の外に待機している人を見ると、役員の青年たちに言った。
 「門を開けて入れてあげてください」
 「もう館内に、入れる場所はありません」
 「いいんだ。この広場で激励するから。この方たちこそ、最も大切な方々なんだよ」
 門扉が開くと、待機していた人たちは、躍り上がらんばかりに喜び、構内に入った。通りすがりの人まで後に続く有り様であった。
 伸一は、「ようこそ! 嬉しいです」と言いながら、皆と握手を交わした。何回も何回も、記念のカメラに納まった。
 「あとで写真をお届けできるように、お名前などを控えて!」
 役員に指示が飛ぶ。
 創価班や牙城会など、役員のメンバーとも記念の写真を撮った。伸一の胸中には、“すべての同志を励まさずにはおくものか!”という、炎のような気迫が満ちあふれていた。
 その一念こそが“創価の魂”である。

新人間革命 雄飛(23)|2017年7月11日

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 福岡へ向かう車中、山岡武夫は、宗門僧への憤怒と悔しさを必死に堪えていた。
 山岡が訪ねた住職は、「自分たちから学会員に、脱会して寺につくように言ったりはしない」と言明していた。ところが、卑劣にも、陰で脱会を唆したのだ。その点を突いても、言を左右にするのである。宗門僧の本質を見せつけられた思いがした。
 九州平和会館の管理者室で、山本伸一は山岡の報告を聞いた。
 「疲れただろう」
 伸一は、包み込むように微笑を浮かべ、言葉をついだ。
 「私も、六時間、僧たちと話し合ったこともあるから、よくわかるんだよ。
 大事な、大事な仏子を、断じて守らなければならない。絶対に、皆を幸せにしていくのだ。そのために、体を張って身を粉にして戦う――それが、私の決意です。創価のリーダーの精神です。私に代わって、わが弟子を、わが仏子を守ってください。頼んだよ」
 ほどなく伸一は、九州平和会館を発ち、空路、次の訪問地である関西へ向かった。
 大分の山岡をはじめ、九州のメンバーは、会館の庭に出て大空を仰ぎ、飛翔する飛行機に手を振った。“先生! 九州は勝ちます”と熱く誓いながら。吹き渡る薫風が心地よかった。彼らの誰もが、今、九州の地から、新しい創価の風が起こり始めたことを感じた。
  
 一九八〇年(昭和五十五年)五月三日。
 ――この年二月に、学会は、恩師・戸田城聖が第二代会長に就任し、伸一が第三代会長に就任した「5・3」を、「創価学会の日」と定めた。その初めての「創価学会の日」を、伸一は大阪市天王寺区の関西文化会館で、愛する関西の同志と共に迎えたのだ。
 同会館は、五日前に落成したばかりで、淡いブラウンの外観をした地上五階、地下一階建ての大関西の中心となる新法城であった。
 五月晴れの常勝の空が、美しく広がっていた。今再びの前進が始まろうとしていた。

新人間革命 雄飛(22)|2017年7月10日

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 山本伸一は、五月一日午後、福岡市西区(後の早良区)の九州記念館を訪問。夜には博多区の九州平和会館での福岡県本部長会に出席し、師子の魂を注ぎ込む思いで訴えた。
 「『広宣流布の胸中の旗』を、断じて降ろしてはならない!」
 「『折伏の修行の旗』を、決して降ろしてはならない!」
 「『一生成仏の、信心の炎の光』を消しては絶対にならない!」
 彼は、この言葉を、強く繰り返した。
 本部長会には、宗門との問題で最も苦しみ抜いてきた大分県の代表も参加していた。
 大分県の別府では、寺の住職が「学会は謗法だ!」などと誹謗中傷を重ねた。それにたぶらかされて脱会し、学会を批判するパンフレットを配って回る人もいた。しかし、同志は、そのなかで、団結を固め、毅然として創価の正義を叫び抜いてきたのだ。
 伸一は、大分の同志と、平和会館のロビーで記念のカメラに納まった。
 「苦労した分だけ、信心は磨かれ、輝きを放つ。あなたたちの戦いは、広宣流布の歴史に永遠に残るよ」
 「先生! 大分に来てください!」
 皆が口々に言った。その目に涙が滲んだ。
 伸一は、深く頷いた。
 この福岡滞在中、学会員は、続々と九州文化会館や九州平和会館、九州記念館に集って来た。「会館に行けば、先生にお会いできる」との話が流れていたのだ。
 タクシーや自転車で乗り付ける人もいた。ジャージー姿のまま家を飛び出してきた人もいた。二日昼、彼が福岡を発つまでに会った同志の数は二万人を超えた。
 出発前、大分県の壮年部書記長の山岡武夫が、平和会館にいた伸一を訪ねてきた。
 彼は、県内の住職が学会員の功労者に脱会を唆したという急報を受け、寺に抗議に出向いた。語らいは深夜に及び、それから列車を乗り継いでやって来たのだ。攻防戦の渦中にあって、最も大切なのは迅速な行動である。

新人間革命 雄飛(21)|2017年7月8日

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 三十日の夕刻、山本伸一は福岡市博多区の九州文化会館(後の福岡中央文化会館)に着いた。車を降りて最初に向かったのは、会館に集って来た同志のところであった。
 多くの人たちは、会館には来たものの、伸一とは会えないのではないかとの思いがあった。それだけに、彼が皆のところへ足を運び、「ありがとう! 皆さんは勝ったんです」と声をかけると、喜びが弾けた。
 伸一の手を握り締めて離さぬ壮年や老婦人もいた。一人の婦人が、持参してきた雑誌を見せながら、「念願の料理店を開きました。店が雑誌に紹介されています。ぜひ来てください」と語ると、伸一は「お伺いしますよ」と笑顔を向けた。
 なんの分け隔てもない、信心で結ばれた人間の絆――これが“創価家族”である。
 翌五月一日も、九州文化会館には、早朝から大勢の同志が訪ねて来た。伸一は、会員の姿を見ると、「どうぞ、こちらへ」と言ってねぎらい、握手を交わし、記念のカメラに納まった。その人数がどんどん増えていった。運営にあたる男子部幹部は困惑した。
 “これでは対応しきれない。何よりも、先生がお疲れになってしまう!”
 彼は、来館者が、なるべく伸一に会わないように誘導していった。だが、それに気づいた伸一は、あえて厳しい口調で言った。
 「求めて会いに来た方々を、さえぎる権利など誰にもないよ」
 会長辞任以来一年、思うように学会員と会えないなかで、満を持して開始された激励行である。全同志と会い、全精魂を注いで励まそうというのが、伸一の決意であった。
 男子部の幹部は、師の心を十分に汲み取ることのできなかった自身を恥じた。
 この日、伸一は、「ぜひ来てください」と言っていた婦人部員の料理店にも足を運んだ。死力を尽くす思いで、一人でも多くの同志と会っていった。反転攻勢の「時」を、断じて逸するわけにはいかなかった。“師子よ立て! 今が勝負だ!”――彼は心で叫び続けた。

新人間革命 雄飛(20)|2017年7月7日

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 山本伸一長崎駅に到着すると、彼を見送ろうと、たくさんの人たちが来ていた。
 伸一は、駅員や乗客の迷惑にならないように気遣いながら、励ましの言葉をかけた。
 「ありがとう。皆さんのご苦労を、私はよく知っております」
 「幸せになってください。いや、絶対になれると、確信して進むことが大事です。広宣流布に生き抜いてきた地涌の菩薩が、幸せになれないわけがありません」
 「一緒に、もう一度、新しい創価学会をつくりましょう」
 列車に乗ってからも、会釈し、手を振り、心と心の窓越しの対話が続いた。
 伸一の乗った特急列車は、長崎を発つと、諫早肥前鹿島、肥前山口、佐賀、鳥栖と止まった。どの駅にも学会員が集まって来ていた。彼の福岡行きは、既に新聞発表されていたために、どの列車に乗るかは容易に察しがついたのである。
 皆、伸一の姿を見つけると、満面の笑みで手を振った。しかし、ホームまで来ていながら、柱の陰などに身を潜め、遠くからジーッと彼を見詰める人もいた。伸一を「先生」と呼ぶことさえ、宗門僧から批判されてきただけに、彼に迷惑をかけてはならないと考えていたのである。伸一は、そんな同志が、いとおしくて仕方なかった。ホームに降りていって力の限り励ましたい思いにかられた。
 伸一は、同行の幹部に言った。
 「こうした無名の同志が、今日の学会を築いてこられた。炎暑の夏も、吹雪の冬も、友の幸せを願い、祈り、対話に歩き、広宣流布を現実に進めてくださった。その歩みこそ、社会の、一国の、全人類の宿命転換を成し遂げていく原動力だ。まさに、一人ひとりが、立正安国の実現のために出現した尊き使命の仏子だ。私は、この人たちのために戦う!
 幹部は、この健気な学会員に最大の敬意を表し、最も大切にし、守り励ましていくんだ」
 組織も、また幹部も、すべては、会員、同志の幸福を実現するためにこそある。

新人間革命 雄飛(19)|2017年7月6日

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 三十日、山本伸一は午後一時過ぎに長崎を発って、列車で福岡に向かう予定であった。彼は、その前に、どうしても訪問しておきたいところがあった。稲佐町にある、壮年部県書記長の大林喜久丸の家である。
 一九七三年(昭和四十八年)の三月、北九州市で行われた初の九州青年部総会の折、当時、男子部の長崎総合本部長であった大林と、「長崎に行った時には、必ず君の自宅を訪問させてもらうよ」と約束していたのである。
 その話を聞いた大林の母・倭代は、「それを実現できるようにするのが、弟子の信心です。祈りましょう」と毅然と語った。以来、家族で真剣な唱題が始まった。彼女は、長崎広布の先駆者の一人であった。
 大林の家は、眼下に長崎港を一望する高台にあった。母親の倭代をはじめ、彼の兄、弟、その夫人たちが伸一を迎えた。皆で記念のカメラに納まり、勤行した。
 倭代は、「先生がいつ来られてもいいように」と、手作りの座布団も用意していた。伸一は、その真心に深く感謝しながら、懇談のひとときを過ごした。話題は、一年前の会長・法華講総講頭の辞任に及んだ。
 ――そのニュースをテレビで知った倭代は、体を震わせて激怒し、こう叫んだという。
 「とんでもないことだ! 何かの謀略です。こんなことを許してはならない」
 道理に反すること、恩知らず、広宣流布を破壊する悪は絶対に許さぬというのが、母の信念であった。威張りくさった僧の横暴にも“今に見よ! 正義は必ず勝つ!”との思いで、この苦汁の一年を過ごしてきたのだ。
 いかなる外圧も、同志の心に滾々と湧く、創価の精神の泉を枯渇させることはできない。
 「ありがとう! その精神は、見事に、息子さんたちが受け継いでくれています。お母さんは勝ったんです。私もこれからは自由に動きます。また長崎にも来ますよ」
 語らいを終えた時、地元の女子部の幹部が指導を受けたいと言って訪ねてきた。伸一は出発時刻ぎりぎりまで、彼女を励ました。

新人間革命 雄飛(19)|2017年7月6日

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 三十日、山本伸一は午後一時過ぎに長崎を発って、列車で福岡に向かう予定であった。彼は、その前に、どうしても訪問しておきたいところがあった。稲佐町にある、壮年部県書記長の大林喜久丸の家である。
 一九七三年(昭和四十八年)の三月、北九州市で行われた初の九州青年部総会の折、当時、男子部の長崎総合本部長であった大林と、「長崎に行った時には、必ず君の自宅を訪問させてもらうよ」と約束していたのである。
 その話を聞いた大林の母・倭代は、「それを実現できるようにするのが、弟子の信心です。祈りましょう」と毅然と語った。以来、家族で真剣な唱題が始まった。彼女は、長崎広布の先駆者の一人であった。
 大林の家は、眼下に長崎港を一望する高台にあった。母親の倭代をはじめ、彼の兄、弟、その夫人たちが伸一を迎えた。皆で記念のカメラに納まり、勤行した。
 倭代は、「先生がいつ来られてもいいように」と、手作りの座布団も用意していた。伸一は、その真心に深く感謝しながら、懇談のひとときを過ごした。話題は、一年前の会長・法華講総講頭の辞任に及んだ。
 ――そのニュースをテレビで知った倭代は、体を震わせて激怒し、こう叫んだという。
 「とんでもないことだ! 何かの謀略です。こんなことを許してはならない」
 道理に反すること、恩知らず、広宣流布を破壊する悪は絶対に許さぬというのが、母の信念であった。威張りくさった僧の横暴にも“今に見よ! 正義は必ず勝つ!”との思いで、この苦汁の一年を過ごしてきたのだ。
 いかなる外圧も、同志の心に滾々と湧く、創価の精神の泉を枯渇させることはできない。
 「ありがとう! その精神は、見事に、息子さんたちが受け継いでくれています。お母さんは勝ったんです。私もこれからは自由に動きます。また長崎にも来ますよ」
 語らいを終えた時、地元の女子部の幹部が指導を受けたいと言って訪ねてきた。伸一は出発時刻ぎりぎりまで、彼女を励ました。

新人間革命 雄飛(18)|2017年7月5日

 山本伸一は、長崎文化会館から、報道各社合同の記者会見会場である長崎市内のホテルへと急いだ。
 記者会見では、第五次訪中で見聞した中国の様子や感想などについての質問を受けた。
 そのあと、訪中団メンバーと解団式を兼ねて会食懇談を行い、皆をねぎらった。
 彼は、訪中を振り返りながら語った。
 「私は、今回の中国訪問によって、新時代の世界平和への幕が開かれたと思っています。そして、二十一世紀を迎えるこれからの二十年間は、民間交流、教育・文化交流を推進し、世界を結ぶ平和の潮流をつくるうえで、極めて重要な時期であると感じています。
 この間に、中国は大発展を遂げていくだろうし、また、世界は、激動、激変していくでしょう。それだけに、仏法の平和思想、人間主義の哲学を、広く世界に発信していかなくてはならない。したがって、仏法を深く掘り下げ、生命尊厳の法理を、社会に、世界にと展開していく教学運動も大事になります。
 二十一世紀の平和を築くうえで、今こそ、すべての面で、一時の猶予も許されない段階に入っているんです」
 懇談が終わったあと、伸一に同行していた「聖教新聞」の記者が言った。
 「帰国報道のほかに、先生が長崎文化会館で長崎支部結成二十二周年記念幹部会に出席されたことも、記事にしたいと思います」
 「かまいません。事実を隠す必要はない。創価の師弟が分断され、不二の心が失われていけば、広宣流布はできない。だから私は、同志と共に戦いを開始します。私の今後の予定も発表しよう。さあ、反転攻勢だ! 戦闘開始だよ!」
 翌四月三十日付の「聖教新聞」一面には、伸一の帰国や記者会見の模様、記念幹部会への出席の報道とともに、「名誉会長は、長崎のあと福岡、関西、中部の会員の激励・指導に当たる予定になっている」と記されていた。
 この一文は、読者の目をくぎ付けにした。日本列島に歓喜の激震が走った。

新人間革命 雄飛(17)|2017年7月4日

 山本伸一は、長崎空港から長崎文化会館へ向かった。彼の長崎訪問は、十二年ぶりであった。
 伸一は、県長の梅森嗣也から、文化会館で長崎支部結成二十二周年記念幹部会が行われていることを聞くと、直ちに会場に顔を出した。大拍手がわき起こった。
 「お久しぶりです。嵐を乗り越えた長崎の勝利を祝って、全員で万歳をしましょう!」
 梅森が音頭を取り、「長崎創価学会、万歳!」の声が場内に轟いた。
 伸一は、これから市内のホテルで訪中についての記者会見があるため、すぐに出発しなければならないことを告げ、言葉をついだ。
 「人生を勝ち越え、幸福になっていくには、どうすればよいか――。
 仏の生命も、地獄の生命も、わが心のなかにあります。その仏の生命を涌現させることによって、崩れざる幸せを築いていくことができる。それには、自身の一念を広宣流布に定め、自他共の幸福の実現を誓って唱題し、信心し抜いていくことです。
 日蓮大聖人は、『我もいたし人をも教化候へ』『力あらば一文一句なりともかた(談)らせ給うべし』(御書一三六一ページ)と仰せです。広宣流布に走り、折伏・弘教に生きるならば、わが身に仏の大生命が涌現し、あらゆる人生の苦をば、大歓喜に変えていくことができる。ゆえに大聖人は、流罪の地である佐渡にあっても、『我等は流人なれども身心共にうれしく候なり』(同一三四三ページ)と述べられているんです。
 学会員が何百万世帯になった、一千万人になったといったって、今現在、地球上には四十数億の人がいます。まだ数百人に一人、学会員が誕生したにすぎない。そう考えるならば、世界広布は、まだまだ緒についたばかりじゃないですか。いよいよこれからです。二十一世紀が本当の戦いです。
 皆さんは、うんと長生きしてください。そして、共に広宣流布に生き抜きましょう!」
 歓喜と誓いの大拍手が響いた。

新人間革命 雄飛(16)|2017年7月3日

 新しき世紀へ、新しき戦いは開始された。
 四月二十九日の午後一時四十分(現地時間)、山本伸一たち一行は、上海虹橋空港を発ち、帰国の途に就いた。伸一が向かった先は、九州の長崎であった。
 彼は、新たな広宣流布の道を開くために、今こそ、創価の師弟を引き離そうとする退転・反逆者や宗門僧による謀略の鉄鎖を断ち切って、新生の闘争を開始しようと、固く決意していた。そして、中国訪問の帰途、長崎、福岡、大阪、名古屋などで、記念勤行会や各種の会合に出席し、全力で同志を励まそうと決めたのである。
 それによって、広布破壊の魔の勢力が、騒ぎだすであろうことは、よくわかっていた。しかし、“何があろうと、横暴な衣の権威の迫害に苦しんできた会員を守らなければならない”と、心を定めていたのだ。
 この日、長崎空港上空には、美しい虹がかかった。伸一たちが空港に到着したのは、二十九日の午後四時半過ぎであった。
 彼はタラップに立った。空港の送迎デッキでは、「祝 大成功 創価学会第5次訪中団」の横幕を広げ、大勢の学会員が手を振って出迎えてくれた。
 伸一も皆に向かって手を振り返した。この時から、彼の激励行は始まったのである。
 皆の顔には、喜びがあふれていた。
 長崎県長の梅森嗣也は、満面に笑みを浮かべていたが、伸一と握手を交わすと、感極まり、目を潤ませた。長崎空港のある大村もまた、宗門僧らによって苛め抜かれてきた地域であり、彼らは悔し涙を堪えながら、この日が来るのを、待ち続けてきたのだ。
 「師子が来たんだ! もう大丈夫だ。何も心配ないよ」
 女子部の代表が、「先生、お帰りなさい!」と言って、伸一に花束を手渡した。
 「ありがとう! さあ、新出発だよ。広宣流布の長征の開始だ。未来の扉を開こう!」
 前進ある限り、希望の明日は来る。闘魂燃える限り、未来は太陽の輝きに満ちている。