人革速報

新人間革命での池田先生のご指導に学ぶブログです。

新人間革命 雄飛(15)|2017年7月1日

 人は、出会いによって「知人」となり、語らいを重ねることで「友人」となり、真心を尽くし、共感し合うことで「心友」となる。
 山本伸一と巴金は、さらに交流を続け、深い信頼と強い友誼の絆に結ばれていく。
 巴金は、その後、中国作家協会の主席となる。二〇〇三年(平成十五年)十一月、伸一は、同協会と中華文学基金会から、「理解・友誼 国際文学賞」を受けている。
 この二年後の二〇〇五年(同十七年)、巴金は百歳で永眠する。
 また、謝冰心は、一九九九年(同十一年)に九十八歳で他界している。その前々年の九七年(同九年)、巴金が会長を務める冰心研究会が発起人となって、彼女の功績を宣揚するため、福建省長楽市に「冰心文学館」が設立されている。二〇〇四年(同十六年)九月、同館から、伸一に「名誉館長」、峯子に「愛心大使」の称号が贈られる。
 伸一は、峯子と共に、これらの厚意に応えていくためにも、さらに、日中の文化・芸術の交流と友好の推進に力を注いでいこうと、誓いを新たにしたのである。
  
 二十九日は、第五次訪中団の帰国の日である。伸一は、宿舎とした錦江飯店の総支配人から記帳を望まれると、署名に添えて、「金の橋 訪中五たび 八幡抄」と記した。
 大聖人は、「諫暁八幡抄」に、「月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり」(御書五八八ページ)と断言されている。「仏法西還」の未来記である。
 日蓮仏法の人間主義の光をもって、アジア、世界を照らし、人びとの幸福を築きゆくことこそ、後世の末弟に託された使命である。ゆえに伸一は、この未来記を実現するために、生命を注いで平和旅を続けてきたのだ。
 立正安国をめざすわれら仏法者の社会的使命は、人びとの胸中に、生命の尊厳と慈悲の哲理を打ち立て、社会の繁栄と世界の恒久平和を建設していくことにある。

新人間革命 雄飛(14)|2017年6月30日

 訪中前の日本での語らいで、山本伸一は、巴金ら中国作家代表団に、「次回は、革命と文学、政治と文学、平和と文学などについて語り合いましょう」と言って、再び会うことを約したのである。
 そして、第五次訪中で、二十四日に伸一が主催した北京での答礼宴の折には、謝冰心と再会。さらに、この上海で巴金と二度目の会談が実現したのである。
 伸一が、政治と文学の関係について意見を求めると、彼は即答した。
 「文学は政治から離れることはできない。しかし、政治は、絶対に文学の代わりにはなり得ません。文学は、人の魂を築き上げることができるが、政治にはできないからです」
 話題は、文化大革命に移っていった。
 巴金は文革の時代、「反革命分子」とされ、文芸界から追放された。彼を批判する数千枚の大字報(壁新聞)が張り出され、「売国奴」と罵られもした。彼は、この苦難をきちんと総括し、自分を徹底的に分析し、当時、起こった事柄を、はっきり見極めていくことの大切さを強調した。
 巴金は文化講演会でも、こう訴えている。
 「私は書かなければなりません。私は書き続けます。そのためには、まず自分をより善良な、より純潔な、他人に有益な人間に変えねばなりません。
 私の生命は、ほどなく尽きようとしています。私はなすべきこともせずに、この世を離れたくはありません。私は書かねばならず、絶対に筆を置くことはできません。筆によってわが心に火をつけ、わが体を焼きつくし、灰となった時、私の愛と憎しみは、この世に消えることなく残されるでしょう」
 時代の誤った出来事を看過してはならない。その要因と本質とを深く洞察し、未来のために戦いを開始するのだ。
 会談で巴金は、「今、文革についての小説を書き始めました。ゆっくりと、時間をかけて書いていくつもりです」と語った。
 正義の闘魂が、新しき社会を創る。

新人間革命 雄飛(13)|2017年6月29日

 山本伸一は、二十八日、蘇歩青との会談に続き、夕刻には作家・巴金の訪問を受けた。
 巴金は、『家』『寒夜』などの作品で世界的に著名な中国文学界の重鎮であり、中国作家協会の第一副主席であった。
 巴金との会談は、これが二回目であった。
 今回の訪中を控えた四月五日、中国作家代表団の団長として日本を訪れた彼と、静岡研修道場で初めて懇談したのである。
 ここには、中国作家協会名誉主席で、代表団の副団長として来日した現代中国文学の母・謝冰心らも同席し、文学の在り方や日本文壇の状況、紫式部夏目漱石などをめぐって、活発に意見を交換した。
 この会談の六日後に行われた聖教新聞社主催の文化講演会で巴金は、「私は敵と戦うために文章を書いた」と明言している。彼は、革命前の中国を覆っていた封建道徳などの呪縛のなか、青春もなく、苦悩の獄に繫がれた人たちに、覚醒への燃える思いを注いで、炎のペンを走らせてきたのだ。
 巴金は語っている。
 「私の敵は何か。あらゆる古い伝統観念、社会の進歩と人間性の伸長を妨げる一切の不合理の制度、愛を打ち砕くすべてのもの」
 彼は七十五歳であったが、民衆の敵と戦う戦士の闘魂がたぎっていた。伸一は語った。
 「青年の気概に、私は敬服します。
 今日の日本の重大な問題点は、本来、時代変革の旗手であり、主役である青年が、無気力になり、あきらめや現実逃避に陥ってしまっていることです。そこには、文学の責任もあります。青少年に確固たる信念と大いなる希望、そして、人生の永遠の目標を与える哲学性、思想性に富んだ作家や作品が少なくなっていることが私は残念なんです。
 社会を変えてきたのは、いつの世も青年であり、若い力です。青年には、未来を創造していく使命がある。そして、実際にそうしていける力を備えているんです。断じてあきらめてはならない。それは、自らの未来を放棄してしまうことになるからです」

新人間革命 雄飛(12)|2017年6月28日

 二十八日の午後、宿舎の錦江飯店に戻った山本伸一のもとへ、復旦大学の蘇歩青学長が訪れた。伸一は、復旦大学へは一九七五年と七八年(昭和五十年と五十三年)に図書贈呈のために訪問しており、蘇学長とは旧知の間柄である。
 蘇歩青は著名な数学者であり、この日も数学や教育をめぐっての語らいとなった。そのなかで、「数学は難しいといわれるが、易しく教えることはできるか」との質問に対する学長の答えが、伸一の印象に残った。
 「何事も、『浅い』から『深い』へ、『小』から『大』へ、『易しいもの』から『難しいもの』へという過程があります。無理をさせずに、その一つ一つの段階を丹念に教え、習得させていくことで、可能になります」
 さらに学長は、力を込めて語った。
 「つまり、学ぶ者としては、一歩一歩、おろそかにせず、着実に学習していくことが大事です。そして、自分の最高の目標をめざして、歩み続けていくことです。しかし、そこに到達するまでには、“とうてい出来ない”と思うこともあるでしょう。まさに、この時が勝負なんです。そこで我慢し、忍耐強く、ある程度まで歩みを運んでいくと、開けていくものなんです。それは、『悟る』ということに通じるかもしれません」
 何かをめざして進む時には、必ず「壁」が生じる。そこからが、正念場であるといえよう。それは、自分自身との戦いとなる。あきらめ、妥協といった、わが心に巣くう弱さを打ち砕き、前へ、前へと進んでいってこそ、新たな状況が開かれるのだ。勝者とは、自らを制する人の異名である。
 伸一は蘇歩青と、その後も交流を重ね、二人の語らいは六回に及ぶことになる。
 八七年(同六十二年)六月、伸一は、復旦大学の名誉学長となっていた蘇歩青との友情と信義の証として、詩「平和の大河」を贈った。そこには、こうある。
 「大河も一滴の水より 平和の長江へ 我等 その一滴なりと ともどもに進みゆかなむ」

新人間革命 雄飛(11)|2017年6月27日

 二十六日の夕刻、山本伸一は宿舎の榕湖飯店で、桂林市画院の院長で広西芸術学院教授の李駱公と懇談した。李院長は日本留学の経験もあり、著名な書画家、篆刻家である。
 書や絵画について話が弾んだが、次の言葉が、伸一の心に深く残った。
 「書道というものは、単なる文字のための文字ではありません。人間の思想、感情から生まれるものであり、その人の世界観、宇宙観、人格を表すものです」
 広西芸術学院は、三十年後の二〇一〇年(平成二十二年)四月、伸一に終身名誉教授の称号を贈っている。
   
 二十七日午前、訪中団一行は桂林を発ち、広州を経由して、夕刻、上海に到着した。ここが、最後の訪問地となる。
 翌二十八日午前、伸一は上海体育館で行われた、上海市へのスポーツ用品の贈呈式に出席し、午後には同市の長寧区工読学校を視察した。ここは、十六、七歳の非行少年の更生を目的とした全寮制の学校である。
 一行は、校長らの案内で各教室を回った。
 伸一は生徒たちと次々に握手を交わし、語り合った。あらゆる可能性を秘めているのが若者である。何があっても強く生き抜いてほしいと思うと、手にも声にも力がこもった。
 「人生は長い。ちょっとしたきっかけで挫折してしまうこともある。でも、それによって、絶対に希望を失ってはならない。挑戦ある限り、必ず希望はあります。
 しかし、自暴自棄になったり、あきらめたりすることは、その希望の灯を自ら消してしまうことになる。したがって、どんなことがあっても、自分に負けてはなりません。自分に勝つことが、すべてに勝つことです。
 この学校で、しっかり学び抜いて、社会のために、お父さん、お母さんのために、自己自身のために勝利してください。決して落胆せずに大成長し、必ず日本に来てください。
 忍耐だよ。負けてはいけないよ!」
 頷く生徒たちの目に、決意の輝きを見た。

新人間革命 雄飛(10)|2017年6月26日

 同行した中日友好協会の孫平化副会長の話では、「漓江煙雨」といって、煙るような雨の漓江が、いちばん美しいという。だが、桂林の景観が醸し出す詩情に浸りながらも、話題は現実の国際情勢に及んでいた。
 前年末に、ソ連アフガニスタンに侵攻したことから、ソ連への非難の声が中国国内でも高まっていたのだ。そして、山本伸一ソ連へも友好訪問や要人との対話を重ねていることに対して、快く思わぬ人もいたのである。
 船上の語らいで、伸一は、こう言われた。
 「中国と日本に金の橋を架けたあなたがソ連に行けば、中日の関係は堅固なものになりません。行かないようにしてほしい」
 伸一は、率直な意見に感謝しながらも、同意することはできなかった。
 「皆さんのお気持ちはわかります。しかし、時代は大きく変化しています。二十一世紀を前に、全人類の平和へと、時代を向けていかなくてはなりません。大国が争い、憎み合っている時ではありません。
 “互いのよいところを引き出し合いながら調和していこう”“人間が共に助け合って、新しい時代をつくっていこう”――そういう人間主義こそが必要になってくるのではないでしょうか」
 彼は懸命に訴えたが、なかなか納得してもらうことはできなかった。すぐに、中国とソ連と、どっちが大事なのかといった話に戻ってしまうのである。
 漓江の風景は刻々と変わるが、やがては大海に注ぐ。同様に、時代は人類平和の大海原へと進む――そう伸一は確信していた。
 「私は中国を愛します。中国が大事です。同時に、人間を愛します。人類全体が大事なんです。ソ連の首脳からも、『絶対に中国は攻めない』との明言をもらい、お国の首脳に伝えました。両国が仲良くなってもらいたいのです。私の考えは、いつか必ずわかっていただけるでしょう」
 彼の率直な思いであり、信念であった。
 粘り強い行動こそが不可能を可能にする。

新人間革命 雄飛(9)|2017年6月24日

 四月二十五日、山本伸一を団長とする訪中団一行は、北京を発ち、空路、広東省省都広州市を経て、桂林市を訪ねた。
 翌日、車で楊堤へ出て、煙雨のなか、徒歩で漓江のほとりの船着き場に向かった。霧雨の竹林を抜けると、河原にいた子どもたちが近寄ってきた。そのなかに天秤棒を担いで、薬を売りにきていた二人の少女がいた。
 彼女たちは、道行く人に、「薬はなんでもそろっていますよ。お好きなものをどうぞ」と呼びかけている。
 質素な服に、飾り気のないお下げ髪である。澄んだ瞳が印象的であった。
 伸一は、微笑みながら、自分の額を指さして、「それでは、すみませんが、頭の良くなる薬はありませんか?」と尋ねた。少女の一人が、まったく動じる様子もなく答えた。
 「あっ、その薬なら、たった今、売り切れてしまいました」
 そして、ニッコリと笑みを浮かべた。
 見事な機転である。どっと笑いが弾けた。
 伸一は、肩をすくめて言った。
 「それは、私たちの頭にとって、大変に残念なことです」
 彼は、妻の峯子と、お土産として、少女たちから塗り薬などの薬を買った。
 少女の機転は、薬を売りながら、やりとりを通して磨かれていったものかもしれない。
 子どもは、社会の大切な宝であり、未来を映す鏡である。伸一は、子どもたちが、大地に根を張るように、強く、たくましく育っている姿に、二十一世紀の希望を見る思いがした。そして、この子らのためにも、教育・文化の交流に、さらに力を注ごうと決意を新たにしたのである。
 一行は、桂林市の副市長らに案内されながら、楊堤から漓江の下流にある陽朔まで約二時間半、船上で対話の花を咲かせた。
 「江は青羅帯を作し、山は碧玉篸の如し」(注)と謳われた桂林の景観である。川の両側には、屛風のように奇岩が連なる。白いベールに包まれた雨の仙境を船は進んだ。

 小説『新・人間革命』の引用文献
 注 『続国訳漢文大成 文学部第九巻 韓退之詩集 下巻』東洋文化協会=現代表記に改めた。

新人間革命 雄飛(7)|2017年6月22日

 絵画「チョモランマ峰」の寄贈にあたり、常書鴻・李承仙夫妻から、この絵を制作した文革直後の時代は、絵の具の品質が良くないので、末永く絵を残すために、描き直したいとの話があった。
 山本伸一は、その心遣いに恐縮した。
 新たに制作された同じ主題、同じ大きさの絵が贈られ、一九九二年(平成四年)四月、除幕式が行われた。後にこの絵は、創価学会の重宝となり、八王子の東京牧口記念会館の一階ロビーに展示され、人類に希望の光を送ろうと奮闘する、世界の創価の同志を迎えることになる。
 また、常書鴻との出会いから始まった敦煌との交流は、さらに進展し、八五年(昭和六十年)秋からは、「中国敦煌展」が東京富士美術館をはじめ、全国の五会場で順次開催されている。広く日本中に、敦煌芸術が紹介されていったのである。
 九二年(平成四年)、敦煌研究院は、伸一に「名誉研究員」の称号を贈り、さらに、九四年(同六年)には、彼を「永久顕彰」し、肖像画莫高窟の正面入り口に掲げたのである。
   
 第五次訪中で山本伸一たち一行が、中国共産党中央委員会華国鋒主席(国務院総理)と会見したのは、二十四日の夕刻であった。
 人民大会堂での一時間半に及ぶ語らいで、「新十カ年計画」「文化大革命」「官僚主義の問題」「新しい世代と教育」などについて話し合われた。
 主席は、伸一に、笑顔で語りかけた。
 「このたびの中国訪問は五回目と聞いております。中国の古い友人である先生のお名前は、かねてから伺っておりました。
 私のように、山本先生にお会いしたことがない人も、先生のこと、そして、創価学会のことは、よく知っています。私は、学会の記録映画も拝見しました」
 人間革命を機軸にした学会の民衆運動に、華国鋒主席も注目していたのである。社会建設の眼目は、人間自身の改革にこそある。

新人間革命 雄飛(6)|2017年6月21日

 一九九〇年(平成二年)十一月、静岡県にあった富士美術館で、常書鴻の絵画展が開催された。
 そのなかに、ひときわ目を引く作品があった。特別出品されていた「チョモランマ峰(科学技術の最高峰の同志に捧ぐ)」と題する、縦三メートル余、横五メートル余の大絵画である。チョモランマとは、世界最高峰のエベレストをさす土地の言葉で、「大地の母なる女神」の意味であるという。
 ――天をつくように、巍々堂々たる白雪の山がそびえる。その神々しいまでの頂をめざす人たちの姿もある。
 絵は、常書鴻が夫人の李承仙と共に描いた不朽の名作である。文化大革命の直後、満足に絵の具もない最も困難な時期に、「今は苦しいけれども、二人で文化の世界の最高峰をめざそう」と誓い、制作したものだ。
 山本伸一は、絵画展のために来日した夫妻と語り合った。常書鴻との会談は、これが六回目であった。彼は、この労苦の結晶ともいうべき超大作を、伸一に贈りたいと語った。あまりにも貴重な“魂の絵”である。伸一は、「お気持ちだけで……」と辞退した。
 しかし、常書鴻は「この絵にふさわしい方は、山本先生をおいてほかに断じていないと、私は信じます」と言明し、言葉をついだ。
 「私たちは、文革の渦中で、口には言い表せないほどの仕打ちを受けました。人生は暗闇に閉ざされ、ひとすじの光も差していませんでした。しかし、この絵を描くことで、権力にも縛られることのない希望の翼が、大空に広がっていきました。絵が完成すると、新たな希望が蘇っていました。
 山本先生はこれまで、多くの人びとに『希望』を与えてこられた方です。ですから、この絵は、先生にお贈りすることが、最もふさわしいと思うのです」
 過分な言葉であるが、この夫妻の真心に応えるべきではないかと伸一は思った。人類に希望の光を注がんとする全同志を代表して、謹んで受けることになったのである。

新人間革命 雄飛(5)|2017年6月20日

 常書鴻が敦煌莫高窟で暮らし始めたころ、そこは、まさに“陸の孤島”であった。
 周囲は砂漠であり、生活用品を手に入れるには約二十五キロも離れた町まで行かねばならなかった。もちろん、自家用車などない。
 土レンガで作った台にムシロを敷いて麦藁を置き、布で覆ってベッドにした。満足な飲み水さえない。冬は零下二〇度を下回ることも珍しくなかった。
 近くに医療施設などなく、病にかかった次女は五日後に亡くなった。彼より先に敦煌に住み、調査などを行っていた画家は、ここを去るにあたって、敦煌での生活は、「無期懲役だね」と、冗談まじりに語った。 
 しかし、常書鴻は、その時の気持ちを次のように述べている。
 「この古代仏教文明の海原に、無期懲役が受けられれば、私は喜んでそれを受けたいという心境でした」
 覚悟の人は強い。艱難辛苦の嵐の中へ突き進む決意を定めてこそ、初志貫徹があり、人生の勝利もある。また、それは仏法者の生き方でもある。ゆえに日蓮大聖人は、「よ(善)からんは不思議わる(悪)からんは一定とをもへ」(御書一一九〇ページ)と仰せである。
 莫高窟は、長年、流砂に埋もれ、砂や風の浸食を受け、放置されてきた結果、崩落の危機に瀕していた。その状態から、石窟内の壁画や塑像を保護し、修復していくのである。
 作業は、防風防砂のための植樹から始めなければならなかった。気の遠くなるような果てしない労作業である。だが、やがて彼の努力は実り、敦煌文物研究所は国際的に高い評価を受けるようになったのである。
 この日の、伸一と常書鴻の語らいは弾み、心はとけ合った。二人は、一九九二年(平成四年)までに七回の会談を重ねることになる。
 そして九〇年(同二年)には、それまでの意見交換をまとめ、対談集『敦煌の光彩――美と人生を語る』が発刊されている。
 未来に友好と精神文化のシルクロードを開きたいとの、熱い思いからの対話であった。