人革速報

新人間革命での池田先生のご指導に学ぶブログです。

新人間革命 雄飛(7)|2017年6月22日

 絵画「チョモランマ峰」の寄贈にあたり、常書鴻・李承仙夫妻から、この絵を制作した文革直後の時代は、絵の具の品質が良くないので、末永く絵を残すために、描き直したいとの話があった。
 山本伸一は、その心遣いに恐縮した。
 新たに制作された同じ主題、同じ大きさの絵が贈られ、一九九二年(平成四年)四月、除幕式が行われた。後にこの絵は、創価学会の重宝となり、八王子の東京牧口記念会館の一階ロビーに展示され、人類に希望の光を送ろうと奮闘する、世界の創価の同志を迎えることになる。
 また、常書鴻との出会いから始まった敦煌との交流は、さらに進展し、八五年(昭和六十年)秋からは、「中国敦煌展」が東京富士美術館をはじめ、全国の五会場で順次開催されている。広く日本中に、敦煌芸術が紹介されていったのである。
 九二年(平成四年)、敦煌研究院は、伸一に「名誉研究員」の称号を贈り、さらに、九四年(同六年)には、彼を「永久顕彰」し、肖像画莫高窟の正面入り口に掲げたのである。
   
 第五次訪中で山本伸一たち一行が、中国共産党中央委員会華国鋒主席(国務院総理)と会見したのは、二十四日の夕刻であった。
 人民大会堂での一時間半に及ぶ語らいで、「新十カ年計画」「文化大革命」「官僚主義の問題」「新しい世代と教育」などについて話し合われた。
 主席は、伸一に、笑顔で語りかけた。
 「このたびの中国訪問は五回目と聞いております。中国の古い友人である先生のお名前は、かねてから伺っておりました。
 私のように、山本先生にお会いしたことがない人も、先生のこと、そして、創価学会のことは、よく知っています。私は、学会の記録映画も拝見しました」
 人間革命を機軸にした学会の民衆運動に、華国鋒主席も注目していたのである。社会建設の眼目は、人間自身の改革にこそある。

新人間革命 雄飛(6)|2017年6月21日

 一九九〇年(平成二年)十一月、静岡県にあった富士美術館で、常書鴻の絵画展が開催された。
 そのなかに、ひときわ目を引く作品があった。特別出品されていた「チョモランマ峰(科学技術の最高峰の同志に捧ぐ)」と題する、縦三メートル余、横五メートル余の大絵画である。チョモランマとは、世界最高峰のエベレストをさす土地の言葉で、「大地の母なる女神」の意味であるという。
 ――天をつくように、巍々堂々たる白雪の山がそびえる。その神々しいまでの頂をめざす人たちの姿もある。
 絵は、常書鴻が夫人の李承仙と共に描いた不朽の名作である。文化大革命の直後、満足に絵の具もない最も困難な時期に、「今は苦しいけれども、二人で文化の世界の最高峰をめざそう」と誓い、制作したものだ。
 山本伸一は、絵画展のために来日した夫妻と語り合った。常書鴻との会談は、これが六回目であった。彼は、この労苦の結晶ともいうべき超大作を、伸一に贈りたいと語った。あまりにも貴重な“魂の絵”である。伸一は、「お気持ちだけで……」と辞退した。
 しかし、常書鴻は「この絵にふさわしい方は、山本先生をおいてほかに断じていないと、私は信じます」と言明し、言葉をついだ。
 「私たちは、文革の渦中で、口には言い表せないほどの仕打ちを受けました。人生は暗闇に閉ざされ、ひとすじの光も差していませんでした。しかし、この絵を描くことで、権力にも縛られることのない希望の翼が、大空に広がっていきました。絵が完成すると、新たな希望が蘇っていました。
 山本先生はこれまで、多くの人びとに『希望』を与えてこられた方です。ですから、この絵は、先生にお贈りすることが、最もふさわしいと思うのです」
 過分な言葉であるが、この夫妻の真心に応えるべきではないかと伸一は思った。人類に希望の光を注がんとする全同志を代表して、謹んで受けることになったのである。

新人間革命 雄飛(5)|2017年6月20日

 常書鴻が敦煌莫高窟で暮らし始めたころ、そこは、まさに“陸の孤島”であった。
 周囲は砂漠であり、生活用品を手に入れるには約二十五キロも離れた町まで行かねばならなかった。もちろん、自家用車などない。
 土レンガで作った台にムシロを敷いて麦藁を置き、布で覆ってベッドにした。満足な飲み水さえない。冬は零下二〇度を下回ることも珍しくなかった。
 近くに医療施設などなく、病にかかった次女は五日後に亡くなった。彼より先に敦煌に住み、調査などを行っていた画家は、ここを去るにあたって、敦煌での生活は、「無期懲役だね」と、冗談まじりに語った。 
 しかし、常書鴻は、その時の気持ちを次のように述べている。
 「この古代仏教文明の海原に、無期懲役が受けられれば、私は喜んでそれを受けたいという心境でした」
 覚悟の人は強い。艱難辛苦の嵐の中へ突き進む決意を定めてこそ、初志貫徹があり、人生の勝利もある。また、それは仏法者の生き方でもある。ゆえに日蓮大聖人は、「よ(善)からんは不思議わる(悪)からんは一定とをもへ」(御書一一九〇ページ)と仰せである。
 莫高窟は、長年、流砂に埋もれ、砂や風の浸食を受け、放置されてきた結果、崩落の危機に瀕していた。その状態から、石窟内の壁画や塑像を保護し、修復していくのである。
 作業は、防風防砂のための植樹から始めなければならなかった。気の遠くなるような果てしない労作業である。だが、やがて彼の努力は実り、敦煌文物研究所は国際的に高い評価を受けるようになったのである。
 この日の、伸一と常書鴻の語らいは弾み、心はとけ合った。二人は、一九九二年(平成四年)までに七回の会談を重ねることになる。
 そして九〇年(同二年)には、それまでの意見交換をまとめ、対談集『敦煌の光彩――美と人生を語る』が発刊されている。
 未来に友好と精神文化のシルクロードを開きたいとの、熱い思いからの対話であった。

新人間革命 雄飛(4)|2017年6月19日

 北京大学では、講演に引き続き、四川大学への図書贈呈式が行われた。当初、山本伸一は、四川省成都にある四川大学を訪問する予定であったが、どうしても日程の都合がつかず、ここでの贈呈式となったのである。
 四川大学の杜文科副学長に伸一から、図書一千冊の目録と贈書の一部が手渡されると、拍手が鳴り渡った。また一つ新たな教育・文化交流の端緒が開かれたのである。
  
 二十三日午前には、敦煌文物研究所(後の敦煌研究院)の常書鴻所長夫妻と、宿舎の北京飯店で会談した。
 常書鴻は七十六歳である。敦煌美術とシルクロード研究の世界的な権威として知られ、第五期全国人民代表大会代表でもある。彼は、前日、西ドイツ(当時)から帰国したばかりであったが、旅の疲れも見せずに会談に臨んだ。
 伸一はまず、常所長が、敦煌研究に突き進んでいった理由について尋ねた。
 興味深い答えが返ってきた。
 ――一九二七年(昭和二年)、二十三歳の時、西洋画を学ぶためにフランスへ留学した。そのパリで、敦煌に関する写真集と出合う。すばらしい芸術性に驚嘆した。しかし、それまで、祖国・中国にある敦煌のことを、全く知らなかったのである。これではいけないと思い、三六年(同十一年)、敦煌芸術の保護、研究、世界への紹介のために、すべてを捨てて中国に帰ってきたのだ。
 四三年(同十八年)、研究所設立の先遣隊として、念願の敦煌入りを果たす。以来、三十七年間にわたって敦煌で生活を続け、遺跡の保存、修復等に尽力してきた。
 「敦煌の大芸術は千年がかりでつくられたものです。ところが、その至宝が海外の探検隊によって、国外へ持ち去られていたんです」
 こう語る常書鴻の顔には、無念さがあふれていた。その悔しさを情熱と執念に変え、保護、研究にいそしんできたにちがいない。不撓不屈の執念こそが、大業成就の力となる。

新人間革命 雄飛(8)|2017年6月23日

f:id:akkai005:20170627070313j:plain

 山本伸一との語らいで華国鋒主席は、十億を超える中国人民の衣食住の確保、とりわけ食糧問題が深刻な課題であるとし、まず国民経済の基礎になる農業の確立に力を注ぎたいと述べた。農民の生活が向上していけば、市場の購買力は高まり、それが工業発展の力にもなるからだという。
 その言葉から、膨大な数の人民の暮らしを必死に守り、活路を見いだそうとする中国首脳の苦悩を、伸一は、あらためて実感した。
 政治は、現実である。そこには、人びとの生活がかかっている。足元を見すえぬ理想論は空想にすぎない。現実の地道な改善、向上が図られてこそ、人びとの支持もある。
 また、伸一は、革命が成就すると官僚化が定着し、人民との分離が生じてしまうことについて意見を求めた。
 華主席は、官僚主義の改革こそ、「四つの現代化」を進めるうえで重要な課題であるとし、そのために、「役人への教育」「機構改革」「人民による監督」が必要であると語った。
 指導的な立場にある人が、「民衆のため」という目的を忘れ、保身に走るならば、いかなる組織も硬直化した官僚主義に陥っていく。
 ゆえに、リーダーは、常に組織の第一線に立ち、民衆のなかで生き、共に走り、共に汗を流していくことである。また、常に、「なんのため」という原点に立ち返り、自らを見詰め、律していく人間革命が不可欠となる。
 華主席は、五月末に訪日する予定であった。語らいでは、日中友好の“金の橋”を堅固にしていくことの重要性も確認された。
 この北京では、創価大学で学び、今春、帰国した女子留学生とも語り合った。
 「今」という時は二度とかえらない。ゆえに伸一は、一瞬たりとも時を逃すまいと決め、一人でも多くの人と会い、対話し、励まし、友好を結び、深めることに全精魂を注いだ。
 文豪トルストイは記している。
 「重要なことは、何よりもまず、今、自分が置かれた状況にあって、最高の方法で、現在という時を生きることである」(注)

 小説『新・人間革命』の引用文献
 注 『レフ・トルストイ全集第69巻』テラ出版社(ロシア語)

都議選2017は公明党の大勝利

「政治は、現実である。そこには、人びとの生活がかかっている。足元を見すえぬ理想論は空想にすぎない。現実の地道な改善、向上が図られてこそ、人びとの支持もある」とは、今回の「新人間革命 雄飛8」における、池田先生の政治に関する重要なご指導です。

言うまでも無く、現与党・公明党を設立されたのは、池田大作先生です。故に、公明党は、現実の人々の生活の改善と向上を図る政党でなくてはなりません。

折りしも、2017年の都議会議員選挙では、各選挙区で激戦が展開されています。

公明党は与党であれ野党であった時であれ、「大衆と共に」との現実的な行動を貫いて来ました。

しかしながら、どうしても、実績はさて置き、風評・人気で左右されてしまうのが「選挙」の悲しいところでもあります。

都議選 公明党 候補者の最新情勢(都議選2017)

故に、なんとしても都議会公明党には大勝利してもらいたく念願致します。

新人間革命 第18巻のあらすじ(各章要旨)

新・人間革命 第18巻の各章ごとのあらすじ(要旨)は以下のとおり。

師子吼 あらすじ

1973年(昭和48年)7月、山本伸一は、映画「人間革命」の完成試写会に臨んだ。原作は、恩師・戸田城聖の生涯をつづった伸一の小説『人間革命』である。映画化のきっかけは、原作に感動したプロデューサーの要請だった。その熱意に承諾した伸一も、撮影現場を訪れ、俳優やスタッフを励ますなど、誠心誠意、応援した。当代一流の映画人が総力をあげた作品は、記録的な大ヒットとなったのである。

そのころ伸一は聖教新聞社を足繁く訪れていた。「言論・出版問題」以来、一部の記者の間に、安易に社会に迎合して、信心の世界を見下すような風潮が生じていたのだ。その本質は「信心の確信」の喪失である。伸一は記者たちのなかに飛び込み、記事の書き方から生活態度までアドバイスしながら、“広布の使命に生き抜け!”“仏法の眼を磨け!”と、職員の根本精神を教えていく。

さらに通信員大会では、5項目の聖教新聞の基本理念を発表。正義の“師子吼”を放つ言論城が、伸一の手づくりでそびえ立っていったのである。

師恩 あらすじ

鍛錬の夏季講習会。伸一は合計10万人に及んだ参加者を全力で激励。そのなかに5年前に結成した男子部の人材育成グループ「白糸会」もいた。青年たちは、伸一の渾身の励ましに応え、師恩を報じようと懸命に戦い、成長していく。

9月に北海道に飛んだ伸一は、厚田村(当時)の有志による「村民の集い」へ招かれた。村をあげての歓迎は、恩師の故郷を楽土にと願う、伸一と同志が地域に築いた信頼の結実であった。

帰京後も、埼玉や、「山陰郷土まつり」が行われる島根、さらに鳥取を訪問。病苦に打ち勝った友の体験をはじめ、行く先々に、伸一と師弟共戦の凱歌が響いていく。

11月、栃木を訪れた伸一は、県の総会に、小学校の恩師の檜山夫妻を招待する。幾十年が過ぎても、変わらず幼き日の恩師を讃える伸一。そこに、人間として師恩を報じ、どこまでも師弟の道を貫く信念が輝いていた。

前進 あらすじ

各方面・県・区など各地の組織を強くしてこそ、創価の民衆城を支える柱は盤石になる--全国への伸一の激励は続いた。菊花香る晩秋の愛媛では、聖教新聞の購読推進に大奮闘した同志の心意気に、伸一は、「広布第2章」の前進の光を感じる。香川、徳島に赴いた彼は、広布途上に早世した青年を偲び、求道心をたぎらせ続けた老婦人との劇的な出会いなどを刻みながら、学会員こそ郷土の繁栄を担う社会の宝であると訴えた。

当時、石油危機による物価高騰と不況が深刻化し、中小企業の多い地域で苦闘する同志も多かった。しかし、混迷の世相だからこそ、信心という原点をもった学会員が社会の希望となる。師走にかけて、東京各区を回った伸一は、烈々と叫ぶ。「不況に負けるな! 今こそ信心で勝て!」

1973年(同48年)の掉尾を飾る本部総会が、初めて関西で開催された。明年の「社会の年」へ、同志は、人間主義の新時代を開くため、勇んで大前進を開始する。

飛躍 あらすじ

世界経済の激動で明けた74年(同49年)。「大悪は大善の来るべき瑞相」(御書1467ページ)と、学会は逆境を希望に転ずる確信で「社会の年」を出発した。年頭から伸一が力を注いだのは、広宣流布の基盤である座談会の充実だった。その成功のために彼は、中心者の一念の大切さ等を、折あるごとに訴える。

北九州での青年部総会、福岡・田川の友を激励した伸一は、1月下旬、鹿児島から香港へ飛ぶ。10年ぶりの香港は、実に8000世帯に大発展。皆の功徳満開の姿が、伸一の最高の喜びであった。同志は、誤認識の批判をはね返し、社会に着実に信頼を広げてきた。伸一は、香港市政局公立図書館、香港大学、香港中文大学を訪れ、文化・教育交流に新たな一歩を踏み出す。さらに「東南アジア仏教者文化会議」に出席。世界広布の大飛躍の時を、伸一は命を賭してつくり続けた。

新・人間革命を読む【楽天ブックス】

新・人間革命をスマホで読む【楽天ブックス(電子書籍)】

「人間革命」を読む【楽天ブックス】

「人間革命」をスマホで読む【楽天ブックス(電子書籍)】

新人間革命のあらすじ 第18巻は全4章

  1. 新人間革命 あらすじ 師子吼の章
  2. 新人間革命 あらすじ 師恩の章
  3. 新人間革命 あらすじ 前進の章
  4. 新人間革命 あらすじ 飛躍の章

新人間革命 雄飛(3)|2017年6月17日

f:id:akkai005:20170618135324j:plain

 山本伸一たち訪中団一行は、二十二日の午後、北京大学を訪問し、季羨林副学長らの歓迎を受けた。同大学の臨湖軒で、創価大学との学術交流に関する議定書の調印が行われ、その際、北京大学から、伸一に名誉教授の称号授与の決定が伝えられた。
 伸一は、謝意を表したあと、この日を記念し、「新たな民衆像を求めて――中国に関する私の一考察」と題する講演を行った。
 中国は、「神のいない文明」(中国文学者・吉川幸次郎)と評され、おそらく世界で最も早く神話と決別した国であるといえよう。
 講演では、司馬遷が、匈奴の捕虜になった武将・李陵を弁護して武帝の怒りを買い、宮刑に処せられた時、「天道」は是か非かとの問いを発していることから話を起こした。わが身の悲劇という個別性のうえに立って、「天道」の是非をただす司馬遷の生き方は、「個別を通して普遍を見る」ことであり、それは中国文明の底流をなすものであるとし、こう論じていった。
 ――それに対して、西洋文明の場合、十九世紀末まで、この世を支配している絶対普遍の神の摂理の是非を、人間の側から問うというよりも、神という「普遍を通して個別を見る」ことが多かった。つまり、神というプリズムを通して、人間や自然をとらえてきた。そのプリズムを、歴史と伝統を異にする民族に、そのまま当てはめようとすれば、押しつけとなり、結局は、侵略的、排外的な植民地主義が、神のベールを被って横行してしまうと指摘したのである。
 さらに伸一は、現実そのものに目を向け、普遍的な法則性を探り出そうとする姿勢の大切さを強調。その伝統が中国にはあり、トインビー博士も、中国の人びとの歴史に世界精神を見ていたことを語った。そして、「新しい普遍主義」の主役となる、新たな民衆、庶民群像の誕生を期待したのである。
 伸一は、中国の大きな力を確信していた。それゆえに日中友好の促進とアジアの安定を願い、訪中を重ねたのである。

新人間革命 雄飛(2)|2017年6月16日

f:id:akkai005:20170618135216j:plain

 二十二日午前、山本伸一たち訪中団は、北京市の中国歴史博物館で開催中の「周恩来総理展」を参観したあと、故・周総理の夫人で、全国人民代表大会常務委員会の副委員長等の要職を務める鄧穎超の招きを受け、中南海の自宅「西花庁」を訪れた。
 彼女の案内で、海棠やライラックの花が咲く美しい庭を回った。亡き総理が外国の賓客を迎えたという応接室で、伸一は一時間半にわたって懇談した。前年四月、日本の迎賓館で会見して以来、一年ぶりの対面であり、総理との思い出に話が弾んだ。
 この日午後、人民大会堂で行われた歓迎宴でも、周恩来の生き方が話題となり、鄧穎超は、総理の遺灰を飛行機から散布したことについて語った。胸を打たれる話であった。
 「若き日に恩来同志と私は、『生涯、人民のために奉仕していこう』と約束しました。
 後年、死んだあとも、その誓いを貫くために、『遺骨を保存することはやめよう』と話し合ったんです」
 遺骨を保存すれば、廟などの建物を造ることになり、場所も、労働力も必要となる。それでは、人民のために奉仕することにはならない。しかし、大地に撒けば、肥料となり、少しでも人民の役に立つこともできる。
 ところが、中国の風俗、習慣では、それはとうてい受け入れがたいことであり、実行することは、まさに革命的行動であった。
 「恩来同志は、病が重くなり、両脇を看護の人に支えられなければならなくなった時、私に念を押しました。
 『あの約束は、必ず実行するんだよ』
 そして、恩来同志は亡くなりました。私が党中央に出したお願いは、ただ一つ、『遺骨は保存しないでください。全国に撒いてください』ということでした。この願いを毛沢東主席と党中央が聞いてくれ、恩来同志との約束を果たすことができたんです」
 人民への奉仕に徹しきった周総理を象徴するエピソードである。意志は実行することで真の意志となり、貫くことで真の信念となる。

新人間革命 雄飛(1)|2017年6月15日

f:id:akkai005:20170618135051j:plain

 北京は、うららかな陽光に包まれていた。空港の周囲に広がる、のどかな田園風景が、「北京の春」を感じさせた。
 一九八〇年(昭和五十五年)四月二十一日の午後二時半(現地時間)、山本伸一たち第五次訪中団一行は、北京の空港に到着した。
 この訪中は、伸一が会長を辞任して以来、初めての海外訪問であった。彼は、これまで民間交流によって築き上げてきた日中友好の金の橋を、いっそう堅固なものにするとともに、二十一世紀に向かって、平和の大道を広げていこうとの決意に燃えていた。
 空港で一行を出迎えた中日友好協会の孫平化副会長が、伸一に語り始めた。
 「北京は、この二、三日、『黄塵万丈』だったんですよ」
 「黄塵万丈」とは、強風で黄色い土煙が空高く舞い上がる様子をいう。
 「一寸先も見えない状態でした。昨日の夕方、やっと収まったんです。今日は春らしい日和となり、青空も広がりました。大自然も、先生の訪中を祝福しているようです」
 今回の中日友好協会からの招聘状には、「春の暖かく花が咲く季節」に一行を迎えたいとあり、まさにその通りの天候となった。
 伸一は、束の間、日本国内での学会を取り巻く状況を思った。
 “宗門の若手僧たちは、異様なまでの学会攻撃を繰り返している。まさに「黄塵万丈」といえる。しかし、こんな状態が、いつまでも続くわけがない。これを勝ち越えていけば、今日の青空のような、広宣流布の希望の未来が開かれていくにちがいない”
 案内された空港の貴賓室には、大きな滝の刺繡画が飾られていた。これは、黄河中流にある大瀑布で、さらに下ると、竜門の激流がある。ここを登った魚は竜になるとの故事が、「登竜門」という言葉の由来である。
 御書にも、竜門は仏道修行にあって成仏の難しさを示す譬えとして引かれている。
 一行は、幾度も激流を越えてきた創価の歩みを思いながら、滝の刺繡画に見入っていた。

新人間革命 雌伏(68)|2017年6月14日

f:id:akkai005:20170618133719j:plain

 戸田城聖の二十三回忌にあたる一九八〇年(昭和五十五年)四月二日付の「聖教新聞」に、山本伸一の「恩師の二十三回忌に思う」と題する一文が掲載された。
 そのなかで、彼は呼びかけた。
 「広宣流布の前進を亡失したならば、宗開両祖の御精神に背くことになるのを深く恐れるのであります。私どもは、以上を踏まえつつ、ふたたび、勇んで広宣流布のため、民衆救済の前進を開始してまいろうではありませんか」
 彼の胸には、常に恩師が生き続けていた。慈折広布に生涯を捧げ尽くした勇姿が、瞼から離れなかった。そして、その戸田の弟子らしく、自身もまた、広宣流布に邁進し抜いて、この一生を終わるのだという思いが、強く、強く、込み上げてくるのであった。
 さらに彼は、この原稿のなかで、「大聖人の仏法の実践は、後退を許さぬ生涯の旅路である」と記し、名誉会長として、インタナショナル会長として、同志のために、平和と文化のために、一段と力を尽くしていくことを宣言したのである。
 伸一は今、一年にわたる雌伏の時を経て、勇躍、飛翔を開始しようとしていた。
 学会という民衆の大地には、随所に師弟共戦の闘魂がほとばしり、あふれていた。
 師弟離間の工作が進み、「先生!」と呼ぶことさえ許されないなか、創価の城を守るために、われに「師匠あり」と、勇気の歌声を響かせた丈夫の壮年・男子の代表もいた。
 四国から、はるばる船で伸一のいる横浜を訪れた求道の勇者たち、遠く奄美の地から東京へ駆けつけた健気なる花の女子部……。また、全国各地の同志から、不撓不屈の前進を誓う、幾千、幾万の便りも届いていた。
 吹雪は激しく猛っていたが、深雪の下では、新生の芽が躍り出ていたのだ。この草の根の強さこそが、学会の強さである。その人たちこそが、創価の宝である。
 “この同志と共に、この同志のために、われは立つ! 風よ、吹け! われに吹け!”
 伸一は、深く心に誓った。 (この章終わり)