人革速報

新人間革命での池田先生のご指導に学ぶブログです。

新人間革命 大山(33)|2017年2月9日

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山本伸一は、今こそ、平和の礎となる、仏法から発する生命の尊厳と平等の哲理を世界に伝え、広め、二十一世紀の時代精神としなければならないと決意していた。
 彼は、「聖教新聞」の創刊二十八周年にあたる四月二十日には、インドの新聞「インディアン・エクスプレス」のS・ムルガオンカル論説総主幹と神奈川文化会館で会談し、平和建設と新聞の使命などについて語り合った。
 伸一は、世界平和の実現という壮大なる目標に向かって、指導者、識者らとの対話を進める一方、一人ひとりの同志の幸福を願い、家庭訪問や個人指導に余念がなかった。神奈川文化会館にあっても、何十人もの来館者に声をかけ、激励と指導を重ねた。
 “何があろうと、いかなる立場になろうと、私は尊き学会員を励まし続ける。庶民と共にどこまでも歩み続ける”――彼は、そう固く心に決めていたのである。
 一人の人を大切にし、守り励ますことも、世界平和の建設も、同じ原点をもつ。万人が等しく「仏」であるとの、仏法の哲理と慈悲から生じる実践にほかならないからだ。
 神奈川県青年部長の大賀孝芳をはじめ、青年たちとも語り合った。
 「君たちの舞台は世界へと広がるよ。同じ人生ならば、私と一緒に、世界広布の大ロマンに生きようじゃないか!」
 決意に燃える青年たちの瞳に、伸一は無限の希望を感じた。
 彼の脳裏には、戦争、飢餓、貧困等々で苦しむ世界の民衆が鮮明に映し出されていた。彼は、何よりも人類を引き裂く東西冷戦にピリオドを打つために、自分ができることは何かを問い、考え抜いてきた。
 “一人の人間として、一民間人として、世界の首脳たちと対話を重ね、人間と人間を結ぶことだ。いかに不可能に見えようが、それ以外に、平和の創造はない!”
 人間主義の旗を高く掲げ、二十一世紀の新大陸へと進む創価の新航路が、ありありと彼の瞼に浮かぶのであった。

新人間革命 大山(32)|2017年2月8日

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山本伸一キッシンジャーは、庭を散策したあと、応接室で語り合った。
 キッシンジャーは、自身の回想録が、間もなく発刊の予定であることを伝えた。
 「ここに書かれた内容は外交政策についてであり、私の行ったことです。私の人生についてのものではありません」
 すかさず伸一が、「“現実に何を行ったか”こそが、外交上も、人生を創造していくうえでも、最重要です」と言うと、彼は照れたように笑いを浮かべた。
 話題は多岐にわたった。
 それぞれの人生を振り返りながら、影響を受けた人びとや、“今の青少年に伝え残すべきことは何か”などが語り合われ、世界の諸情勢へとテーマは広がった。戦争の危機に話が及ぶと、伸一は、平和には裏づけとなる哲学、思想、宗教が必要不可欠であると主張。キッシンジャーも全面的に同意した。
 そこで伸一は、インドの歴史に触れ、アショーカ大王の治世に言及し、平和の礎となる仏法の法理について訴えていった。
 「アショーカは、仏法の教えというものを根幹にすることによって、理想的な政治を行うことができたといえます。
 仏法は本来、すべての人びとが『仏』という尊極無上の生命、すなわち『仏性』を具えていると説いています。それこそが、生命尊厳の確たる裏づけであると同時に、万人平等の哲理ともなります。また、そこから平和主義、人間主義の思想も生まれます」
 二人は、提起し合った問題を掘り下げていくには、多くの時間を要するため、将来、もう一度、対談し、二十一世紀を建設するための示唆を提供していこうと約し合った。
 それが実現し、一九八六年(昭和六十一年)九月、二日間にわたって語らいが行われた。これに往復書簡もまじえ、月刊誌『潮』に翌八七年(同六十二年)一月号から八月号にわたって対談が連載された。そして同年九月、単行本『「平和」と「人生」と「哲学」を語る』として潮出版社から刊行されている。

新人間革命 第2巻のあらすじ(各章要旨)

新・人間革命 第2巻の各章ごとのあらすじ(要旨)は以下のとおり。

 

先駆 あらすじ

1960(昭和35)年5月3日の会長就任の日から、10月2日北南米の旅に出発するまでの5カ月間、伸一は全国を駆けめぐり、新支部の結成を行っていった。
7月17日には、実質的に初の海外支部となる沖縄支部の結成大会へ。伸一は沖縄戦の戦跡を訪ね、いつの日か沖縄で戸田の伝記ともいうべき小説の筆を起こすことを決意する。

錬磨 あらすじ

沖縄から戻った伸一は第2回婦人部大会に出席。続いて、青年の人材錬磨のため、男子部の水滸会、女子部の華陽会の野外研修へ。
そこで、水滸会の精神を忘れたかのような青年達の怠惰な姿に接し、厳しく指導。夏期講習会では、「日興遺誡置文」を研さんし、峻厳(しゅんげん)な信心の姿勢を打ち込む。

勇舞 あらすじ

10月25日に北南米の旅から帰国後、伸一は千葉、前橋の支部結成大会、横浜での第9回男子部総会へ。この総会を見た米国の宗教学者が「生きた仏教」を目の当たりにした驚きを熱く語った。さらに、伸一の支部結成大会の旅が沼津、甲府、松本、長野、富山と進む中で迎えた牧口会長の第17回忌法要。戦前の宗教弾圧に思いをはせる。

民衆の旗 あらすじ

11月20日の第8回女子部総会後、伸一は東北の山形、南秋田、岩手の支部結成大会に出席。民衆のための本当の宗教の力強さを語っていく。第2回学生祭出席後、12月に入ると九州、関西、中国方面の激励旅へ。年末ようやく家族との時間を持つことができた伸一は、父親としての姿勢の一端を語る。

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新人間革命のあらすじ 第2巻は全4章

  1. 新人間革命 あらすじ 先駆の章
  2. 新人間革命 あらすじ 練磨の章
  3. 新人間革命 あらすじ 勇舞の章
  4. 新人間革命 あらすじ 民衆の旗の章

新人間革命 大山(31)|2017年2月7日

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創価学会は、日蓮大聖人の御遺命である広宣流布を成就するために出現した、地涌の菩薩の集いである。ゆえに、初代会長の牧口常三郎も、第二代会長の戸田城聖も、万人の幸福の実現に思いを馳せ、死身弘法の決意で、広宣流布の道を切り開いてきた。
 われらもまた、その創価の師弟の精神を受け継ぎ、今世のわが使命を果たすために、誇り高く、勇んで弘教に走る。
 どのような事態になろうが、創価の師弟の大道を守り抜く限り、慈折広布の前進がとどまることはない。世界の平和へ、人類の幸福へと歴史の歯車は回り、一人ひとりの桜花爛漫たる幸の人生が開かれていく――山本伸一は、全同志に、その確信を、断じて持ち続けてほしかったのである。
  
 四月十六日の午後、伸一は、来日していたアメリカの前国務長官ヘンリー・A・キッシンジャー博士の訪問を受け、東京・渋谷区の国際友好会館(後の東京国際友好会館)で会談した。約四年ぶりの対面である。
 博士は、一九二三年(大正十二年)にドイツで生まれ、少年時代にナチスによるユダヤ人への弾圧を逃れ、一家でアメリカへ移住する。ハーバード大学で政治学を専攻し、さらに博士号を取得。六二年(昭和三十七年)に同大学の教授となる。ニクソン政権では大統領補佐官、国務長官を歴任。その間に、ニクソンの訪中、訪ソを推進し、米ソ戦略兵器制限交渉、ベトナム和平、中東和平などを手がけ、彼の外交手腕は、世界の耳目を集めた。
 七三年(同四十八年)にノーベル平和賞を受賞。七七年(同五十二年)、カーター政権の誕生を機にホワイトハウスを去り、ジョージタウン大学の教授等を務めている。
 「ようこそ! お待ちしておりました」
 伸一は、博士と固い握手を交わし、一緒に会館の庭を散策しながら、近況を語り合った。
 彼は、対話を通して、恒久平和の道を開く手がかりを、共に探し出そうとしていた。語らいによる啓発から新しい知恵が生まれる。

新人間革命 大山(30)|2017年2月6日

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神奈川文化会館の開館記念勤行会は、十四日、昼夜二回にわたって、同志の喜びのなか盛大に行われた。山本伸一は、いずれの勤行会にも出席し、これまでの皆の労苦に最大の感謝の意を込め、全力で励ましを送った。
 席上、彼は、初めて神奈川県横浜市の座談会に参加した、懐かしい思い出を語った。
 「それは、三十年前(一九四九年)であったように思う。当時、私は二十一歳でした。国鉄(後のJR)鶴見線国道駅近くの幹部のお宅が、座談会の会場であった。そこには、未入会の友人が五人、おみえになっていた。青年だけでなく、婦人も、年配の壮年も参加していました。
 私は、若人らしく、元気に体験を語り、師匠・戸田先生の指導を通して、大確信をもって、日蓮大聖人の仏法の偉大さを訴えていった。その五人の方々は、全員、入会を決意されたように記憶しています」
 弘教の最大の力は、豊富な人生経験もさることながら、御本尊への確信であり、相手の幸せを思う真剣さである。ゆえに、若くとも確信と思いやりに満ちた言葉は、人びとの生命に響き、共鳴をもたらすのだ。
 「私は、この神奈川でも、弘教に、座談会に、地区講義に、個人指導にと、走りに走った。それは、すべて青年時代の楽しい有意義な思い出となっています。また、共に活動に励んだ方々は、かけがえのない忘れ得ぬ同志として、深く心に刻まれています」
 伸一は思った。
 “自分の会長辞任が発表されれば、少なからず皆は驚くにちがいない。しかし、何があろうが、いささかたりとも、信心に動揺があってはならない。そのために、不動の信心の確立を叫び抜いておかねばならない”
 彼は、言葉をついだ。
 「学会においても、幾つかの転機があり、乗り越えるべき節があります。いかなる時でも、私たちが立ち返るべき原点は、初代会長の牧口先生が言われた“一人立つ精神”であり、広宣流布の大精神であります」

新人間革命 大山(29)|2017年2月4日

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迎賓館で鄧穎超と会見した翌日の四月十三日午後、山本伸一は、東京・新宿区内で、松下電器産業(後のパナソニック)の創業者である松下幸之助と懇談した。
 深い交友を重ねてきた松下翁にも、会長を辞任する意向であることを伝えておかなくてはと思った。
 「私は、次代のため、未来のために、会長を辞任し、いよいよ別の立場で働いていこうと思っています」
 松下翁は、子細を聞こうとはしなかった。笑顔を向けて、こう語った。
 「そうですか。会長をお辞めになられるのですか。私は、自分のことを誇りとし、自分を称賛できる人生が、最も立派であると思います」
 含蓄のある言葉であった。立場や、人がどう思い、評価するかなどは、全くの些事にすぎない。自分の信念に忠実な、誠実の人生こそが、人間としての勝者の道である。
  
 この日、伸一は、神奈川県横浜市に完成した神奈川文化会館へ向かった。翌十四日に行われる開館記念勤行会に出席するためである。午後八時過ぎに、新法城に到着した。
 文化会館は、地上十階、地下二階建てである。赤レンガの壁が重厚さと異国情緒を醸し出していた。
 恩師・戸田城聖は、一九五七年(昭和三十二年)九月八日、ここ神奈川県横浜市にある三ツ沢の競技場で行われた東日本体育大会「若人の祭典」の席上、「原水爆禁止宣言」を発表している。いわば、神奈川は、創価学会平和運動の原点の地である。
 会館の前は山下公園で、その先が横浜の港である。船の明かりが揺れ、街の灯が宝石をちりばめたように、美しく帯状に広がっている。「七つの鐘」を鳴らし終え、平和・文化の大航路を行く創価の、新しい船出を告げるにふさわしい会館であると、伸一は思った。
 星空に汽笛の音が響いた。新生の朝が、間近に迫りつつあることを彼は感じた。

新人間革命 第1巻のあらすじ(各章要旨)

新・人間革命 第1巻の各章ごとのあらすじ(要旨)は以下のとおり。

 

旭日 あらすじ

1960(昭和35)年10月2日、伸一は、「君の本当の舞台は世界だよ」との師の遺訓を胸に、北南米へ出発。
平和旅の第一歩は、太平洋戦争の火蓋(ひぶた)が切られたハワイの地にしるされた。伸一は渾身(こんしん)の指導を重ねながら仏法を世界宗教として開くための構想を練る。

新世界 あらすじ

第2の訪問地サンフランシスコは日本の講和条約日米安全保障条約の調印の地。伸一は、その地で、世界の冷戦と新安保条約をめぐり混乱する国会に思いをはせる。
サンフランシスコ、ネバダに地区を結成し、やがてアメリカの同志の誓いとなる3指針を提案する。

錦秋 あらすじ

平和旅の舞台はシアトル、シカゴ、トロントへ。シカゴで伸一は、同行の幹部たちにアメリカ総支部の構想、インド、ヨーロッパ訪問の計画を語る。またリンカーン・パークで遊びの輪に入れてもらえない黒人少年を目にし、人種差別の現実に心を痛める。

慈光 あらすじ

伸一は、体調が悪化するなか、ニューヨークの友を激励する。苦悩するメンバーの質問に答えながら、信仰の基本、大聖人の仏法の本義を優しく語る。
さらに「『世界の良心』『世界の良識』といわれるような新聞にしたい」と聖教新聞の精神を語る。

開拓者 あらすじ

ニューヨークからサンパウロへ。ブラジルの座談会では、日系移民の過酷な生活状況が語られるが、伸一は信心を根本に希望の光を送る。そして支部結成の発表が、歓喜の渦を巻き起こす。最終目的地のロサンゼルスで支部を結成し一行は帰国の途につく。

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新人間革命のあらすじ 第1巻は全5章

  1. 新人間革命 あらすじ 旭日の章
  2. 新人間革命 あらすじ 新世界の章
  3. 新人間革命 あらすじ 錦秋の章
  4. 新人間革命 あらすじ 慈光の旗の章
  5. 新人間革命 あらすじ 開拓者の章

新人間革命 大山(28)|2017年2月3日

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山本伸一は当初、一九八九年(平成元年)九月に中国を訪問し、建国四十周年の関連行事に出席する予定であった。しかし、諸情勢から延期を余儀なくされた。彼は代理を立て、鄧穎超あてに、明春には必ず訪問する旨の伝言を託した。また、周夫妻の等身大の肖像画を贈った。
 “中国を孤立化させてはならない!”と、彼は強く心に期していた。
 そして翌九〇年(同二年)五月、創価学会第七次訪中団と友好交流団の計二百八十一人が、大挙して中国を訪れたのである。それは中国との交流再開の大きな流れをもたらし、関わりを躊躇し、状況を見ていた多くの団体等が、これに続いた。
 伸一と峯子は、この折、再び北京市中南海にある鄧穎超の住居・西花庁を訪問した。
 彼女は八十六歳となり、入院中であったが、わざわざ退院して、玄関に立ち、伸一たちを迎えたのだ。彼は、駆け寄って、手を取った。彼女の足は既に不自由であり、衰弱は誰の目にも明らかであった。しかし、頭脳はいたって明晰であった。
 伸一は、祈る思いで訴えた。
 「人民のお母さんは、いつまでも、お元気でいてください。『お母さん』が元気であれば、『子どもたち』は皆、元気です」
 彼女は、周総理の形見である象牙のペーパーナイフと、自身が愛用してきた玉製の筆立てを、「どうしても受け取ってほしい」と差し出した。「国の宝」というべき品である。人生の迫り来る時を感じているにちがいない。その胸の内を思うと、伸一の心は痛んだ。
 彼は“永遠に平和友好に奮闘する精神の象徴”として拝受することにした。これが最後の語らいになったのである。
 鄧穎超は、二年後の九二年(同四年)七月、八十八歳で永眠する。しかし、彼女が周総理と共に結んだ、両国間の友情と信義の絆は、民衆交流の永遠の懸け橋となった。
 心は見えない。しかし、その心と心が、固く、強く結ばれてこそ、真実の友好となる。

新人間革命 大山(27)|2017年2月2日

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鄧穎超は、念を押すように言った。
 「一歩も引いてはいけません!」
 彼女の顔に笑みが戻った。
 「前も敵、後ろも敵」という断崖絶壁のなかで、何十年もの間、戦い続けてきた人の言は重たかった。進退は自分が決めることではあるが、山本伸一にとっては、真心が胸に染みる、ありがたい言葉であった。
 彼は、鄧穎超の思いに応えるためにも、いかなる立場になろうが、故・周恩来総理に誓った、万代にわたる日中友好への歩みを、生涯、貫き通そうと、決意を新たにした。
 伸一は、彼女との約束と日中友好の誓いを果たすために、翌年の一九八〇年(昭和五十五年)四月、第五次訪中へと旅立った。
 この時、鄧穎超は、伸一夫妻を北京市中南海にある西花庁に招いた。彼女が周総理と一緒に、長い歳月を過ごした住居である。
 伸一たちが通された応接間は、人民大会堂が完成するまで、総理が外国の賓客と会っていた部屋であるという。さらに、彼女は、「ぜひ、ご覧いただきたいと思っていました」と言って、中庭を案内した。海棠の花が淡い桃色のつぼみをつけ、薄紫のライラックの花が芳香を漂わせていた。
 庭を散策しながら友誼の語らいは続いた。
 伸一が次に訪中したのは、八四年(同五十九年)六月のことであった。鄧穎超は人民政治協商会議の主席として人民大会堂に伸一を迎え、中日の青年交流をさらに拡大していきたいとの希望を語った。
 五年後の八九年(平成元年)六月四日、中国では第二次天安門事件が起こった。
 以来、欧米諸国は政府首脳の相互訪問を拒絶し、日本政府は中国への第三次円借款の凍結を決めるなど、中国は国際的に孤立した。
 伸一は思った。
 “結果的には、中国の民衆が困難に直面している。私は、今こそ、友人として中国のために力を尽くし、交流の窓を開こう。それが人間の信義であり、友情ではないか!”
 窓が開かれていてこそ対話も可能となる。

新人間革命 大山(26)|2017年2月1日

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山本伸一は、一冊のアルバムを用意していた。そこには、故・周恩来総理の日本への思いに応えたいと創価大学に植えた「周桜」、全青連の青年たちと記念植樹した周恩来桜と鄧穎超桜の「周夫婦桜」、創価大学に学ぶ中国人留学生の写真などが収められていた。
 伸一は、アルバムを一ページ一ページ開いて、鄧穎超に見せながら、「留学生も、しっかり勉強しています」と、近況を紹介していった。彼女は、写真に視線を注ぎ、満面に笑みをたたえて言った。
 「日本へ来る前から、創価大学には、ぜひ行きたいと思っていました。しかし、その時間が取れずに残念です」
 そして、前年九月の、伸一の第四次訪中を振り返り、懐かしそうに思い出を語った。
 伸一は、その折、子々孫々の日中友好のために、周総理の精神と輝かしい事績を紹介する周恩来展の日本開催などを提案していた。
 迎賓館での語らいでは、この周恩来展をはじめ、日本訪問の印象、天皇陛下との会見の様子、また、「四つの現代化」に取り組む中国の現状などに話が及んだ。友好的な意見交換がなされ、時間は瞬く間に過ぎていった。
 鄧穎超は伸一に、「ぜひ、また中国においでください」と要請した。彼は、「必ずお伺いします。中国での再会を楽しみにしております」と笑顔で答え、約四十分間に及んだ和やかな語らいは終わった。
 皆、席を立ち、出入り口に向かった。伸一は“鄧先生には、どうしても伝えておかなければ……”と思い、口を開いた。
 「実は、私は創価学会の会長を辞めようと思っています」
 鄧穎超の足が止まった。伸一を直視した。
 「山本先生。それは、いけません。まだまだ若すぎます。何よりあなたには、人民の支持があります。人民の支持がある限り、辞めてはいけません」
 真剣な目であった。周総理と共に、中国の建設にすべてを捧げてきた女性指導者の目であり、人民を慈しむ母の目であった。