人革速報

新人間革命での池田先生のご指導に学ぶブログです。

新人間革命 雄飛(11)|2017年6月27日

 二十六日の夕刻、山本伸一は宿舎の榕湖飯店で、桂林市画院の院長で広西芸術学院教授の李駱公と懇談した。李院長は日本留学の経験もあり、著名な書画家、篆刻家である。
 書や絵画について話が弾んだが、次の言葉が、伸一の心に深く残った。
 「書道というものは、単なる文字のための文字ではありません。人間の思想、感情から生まれるものであり、その人の世界観、宇宙観、人格を表すものです」
 広西芸術学院は、三十年後の二〇一〇年(平成二十二年)四月、伸一に終身名誉教授の称号を贈っている。
   
 二十七日午前、訪中団一行は桂林を発ち、広州を経由して、夕刻、上海に到着した。ここが、最後の訪問地となる。
 翌二十八日午前、伸一は上海体育館で行われた、上海市へのスポーツ用品の贈呈式に出席し、午後には同市の長寧区工読学校を視察した。ここは、十六、七歳の非行少年の更生を目的とした全寮制の学校である。
 一行は、校長らの案内で各教室を回った。
 伸一は生徒たちと次々に握手を交わし、語り合った。あらゆる可能性を秘めているのが若者である。何があっても強く生き抜いてほしいと思うと、手にも声にも力がこもった。
 「人生は長い。ちょっとしたきっかけで挫折してしまうこともある。でも、それによって、絶対に希望を失ってはならない。挑戦ある限り、必ず希望はあります。
 しかし、自暴自棄になったり、あきらめたりすることは、その希望の灯を自ら消してしまうことになる。したがって、どんなことがあっても、自分に負けてはなりません。自分に勝つことが、すべてに勝つことです。
 この学校で、しっかり学び抜いて、社会のために、お父さん、お母さんのために、自己自身のために勝利してください。決して落胆せずに大成長し、必ず日本に来てください。
 忍耐だよ。負けてはいけないよ!」
 頷く生徒たちの目に、決意の輝きを見た。

新人間革命 雄飛(10)|2017年6月26日

 同行した中日友好協会の孫平化副会長の話では、「漓江煙雨」といって、煙るような雨の漓江が、いちばん美しいという。だが、桂林の景観が醸し出す詩情に浸りながらも、話題は現実の国際情勢に及んでいた。
 前年末に、ソ連アフガニスタンに侵攻したことから、ソ連への非難の声が中国国内でも高まっていたのだ。そして、山本伸一ソ連へも友好訪問や要人との対話を重ねていることに対して、快く思わぬ人もいたのである。
 船上の語らいで、伸一は、こう言われた。
 「中国と日本に金の橋を架けたあなたがソ連に行けば、中日の関係は堅固なものになりません。行かないようにしてほしい」
 伸一は、率直な意見に感謝しながらも、同意することはできなかった。
 「皆さんのお気持ちはわかります。しかし、時代は大きく変化しています。二十一世紀を前に、全人類の平和へと、時代を向けていかなくてはなりません。大国が争い、憎み合っている時ではありません。
 “互いのよいところを引き出し合いながら調和していこう”“人間が共に助け合って、新しい時代をつくっていこう”――そういう人間主義こそが必要になってくるのではないでしょうか」
 彼は懸命に訴えたが、なかなか納得してもらうことはできなかった。すぐに、中国とソ連と、どっちが大事なのかといった話に戻ってしまうのである。
 漓江の風景は刻々と変わるが、やがては大海に注ぐ。同様に、時代は人類平和の大海原へと進む――そう伸一は確信していた。
 「私は中国を愛します。中国が大事です。同時に、人間を愛します。人類全体が大事なんです。ソ連の首脳からも、『絶対に中国は攻めない』との明言をもらい、お国の首脳に伝えました。両国が仲良くなってもらいたいのです。私の考えは、いつか必ずわかっていただけるでしょう」
 彼の率直な思いであり、信念であった。
 粘り強い行動こそが不可能を可能にする。

新人間革命 雄飛(9)|2017年6月24日

 四月二十五日、山本伸一を団長とする訪中団一行は、北京を発ち、空路、広東省省都広州市を経て、桂林市を訪ねた。
 翌日、車で楊堤へ出て、煙雨のなか、徒歩で漓江のほとりの船着き場に向かった。霧雨の竹林を抜けると、河原にいた子どもたちが近寄ってきた。そのなかに天秤棒を担いで、薬を売りにきていた二人の少女がいた。
 彼女たちは、道行く人に、「薬はなんでもそろっていますよ。お好きなものをどうぞ」と呼びかけている。
 質素な服に、飾り気のないお下げ髪である。澄んだ瞳が印象的であった。
 伸一は、微笑みながら、自分の額を指さして、「それでは、すみませんが、頭の良くなる薬はありませんか?」と尋ねた。少女の一人が、まったく動じる様子もなく答えた。
 「あっ、その薬なら、たった今、売り切れてしまいました」
 そして、ニッコリと笑みを浮かべた。
 見事な機転である。どっと笑いが弾けた。
 伸一は、肩をすくめて言った。
 「それは、私たちの頭にとって、大変に残念なことです」
 彼は、妻の峯子と、お土産として、少女たちから塗り薬などの薬を買った。
 少女の機転は、薬を売りながら、やりとりを通して磨かれていったものかもしれない。
 子どもは、社会の大切な宝であり、未来を映す鏡である。伸一は、子どもたちが、大地に根を張るように、強く、たくましく育っている姿に、二十一世紀の希望を見る思いがした。そして、この子らのためにも、教育・文化の交流に、さらに力を注ごうと決意を新たにしたのである。
 一行は、桂林市の副市長らに案内されながら、楊堤から漓江の下流にある陽朔まで約二時間半、船上で対話の花を咲かせた。
 「江は青羅帯を作し、山は碧玉篸の如し」(注)と謳われた桂林の景観である。川の両側には、屛風のように奇岩が連なる。白いベールに包まれた雨の仙境を船は進んだ。

 小説『新・人間革命』の引用文献
 注 『続国訳漢文大成 文学部第九巻 韓退之詩集 下巻』東洋文化協会=現代表記に改めた。

新人間革命 雄飛(7)|2017年6月22日

 絵画「チョモランマ峰」の寄贈にあたり、常書鴻・李承仙夫妻から、この絵を制作した文革直後の時代は、絵の具の品質が良くないので、末永く絵を残すために、描き直したいとの話があった。
 山本伸一は、その心遣いに恐縮した。
 新たに制作された同じ主題、同じ大きさの絵が贈られ、一九九二年(平成四年)四月、除幕式が行われた。後にこの絵は、創価学会の重宝となり、八王子の東京牧口記念会館の一階ロビーに展示され、人類に希望の光を送ろうと奮闘する、世界の創価の同志を迎えることになる。
 また、常書鴻との出会いから始まった敦煌との交流は、さらに進展し、八五年(昭和六十年)秋からは、「中国敦煌展」が東京富士美術館をはじめ、全国の五会場で順次開催されている。広く日本中に、敦煌芸術が紹介されていったのである。
 九二年(平成四年)、敦煌研究院は、伸一に「名誉研究員」の称号を贈り、さらに、九四年(同六年)には、彼を「永久顕彰」し、肖像画莫高窟の正面入り口に掲げたのである。
   
 第五次訪中で山本伸一たち一行が、中国共産党中央委員会華国鋒主席(国務院総理)と会見したのは、二十四日の夕刻であった。
 人民大会堂での一時間半に及ぶ語らいで、「新十カ年計画」「文化大革命」「官僚主義の問題」「新しい世代と教育」などについて話し合われた。
 主席は、伸一に、笑顔で語りかけた。
 「このたびの中国訪問は五回目と聞いております。中国の古い友人である先生のお名前は、かねてから伺っておりました。
 私のように、山本先生にお会いしたことがない人も、先生のこと、そして、創価学会のことは、よく知っています。私は、学会の記録映画も拝見しました」
 人間革命を機軸にした学会の民衆運動に、華国鋒主席も注目していたのである。社会建設の眼目は、人間自身の改革にこそある。

新人間革命 雄飛(6)|2017年6月21日

 一九九〇年(平成二年)十一月、静岡県にあった富士美術館で、常書鴻の絵画展が開催された。
 そのなかに、ひときわ目を引く作品があった。特別出品されていた「チョモランマ峰(科学技術の最高峰の同志に捧ぐ)」と題する、縦三メートル余、横五メートル余の大絵画である。チョモランマとは、世界最高峰のエベレストをさす土地の言葉で、「大地の母なる女神」の意味であるという。
 ――天をつくように、巍々堂々たる白雪の山がそびえる。その神々しいまでの頂をめざす人たちの姿もある。
 絵は、常書鴻が夫人の李承仙と共に描いた不朽の名作である。文化大革命の直後、満足に絵の具もない最も困難な時期に、「今は苦しいけれども、二人で文化の世界の最高峰をめざそう」と誓い、制作したものだ。
 山本伸一は、絵画展のために来日した夫妻と語り合った。常書鴻との会談は、これが六回目であった。彼は、この労苦の結晶ともいうべき超大作を、伸一に贈りたいと語った。あまりにも貴重な“魂の絵”である。伸一は、「お気持ちだけで……」と辞退した。
 しかし、常書鴻は「この絵にふさわしい方は、山本先生をおいてほかに断じていないと、私は信じます」と言明し、言葉をついだ。
 「私たちは、文革の渦中で、口には言い表せないほどの仕打ちを受けました。人生は暗闇に閉ざされ、ひとすじの光も差していませんでした。しかし、この絵を描くことで、権力にも縛られることのない希望の翼が、大空に広がっていきました。絵が完成すると、新たな希望が蘇っていました。
 山本先生はこれまで、多くの人びとに『希望』を与えてこられた方です。ですから、この絵は、先生にお贈りすることが、最もふさわしいと思うのです」
 過分な言葉であるが、この夫妻の真心に応えるべきではないかと伸一は思った。人類に希望の光を注がんとする全同志を代表して、謹んで受けることになったのである。

新人間革命 雄飛(5)|2017年6月20日

 常書鴻が敦煌莫高窟で暮らし始めたころ、そこは、まさに“陸の孤島”であった。
 周囲は砂漠であり、生活用品を手に入れるには約二十五キロも離れた町まで行かねばならなかった。もちろん、自家用車などない。
 土レンガで作った台にムシロを敷いて麦藁を置き、布で覆ってベッドにした。満足な飲み水さえない。冬は零下二〇度を下回ることも珍しくなかった。
 近くに医療施設などなく、病にかかった次女は五日後に亡くなった。彼より先に敦煌に住み、調査などを行っていた画家は、ここを去るにあたって、敦煌での生活は、「無期懲役だね」と、冗談まじりに語った。 
 しかし、常書鴻は、その時の気持ちを次のように述べている。
 「この古代仏教文明の海原に、無期懲役が受けられれば、私は喜んでそれを受けたいという心境でした」
 覚悟の人は強い。艱難辛苦の嵐の中へ突き進む決意を定めてこそ、初志貫徹があり、人生の勝利もある。また、それは仏法者の生き方でもある。ゆえに日蓮大聖人は、「よ(善)からんは不思議わる(悪)からんは一定とをもへ」(御書一一九〇ページ)と仰せである。
 莫高窟は、長年、流砂に埋もれ、砂や風の浸食を受け、放置されてきた結果、崩落の危機に瀕していた。その状態から、石窟内の壁画や塑像を保護し、修復していくのである。
 作業は、防風防砂のための植樹から始めなければならなかった。気の遠くなるような果てしない労作業である。だが、やがて彼の努力は実り、敦煌文物研究所は国際的に高い評価を受けるようになったのである。
 この日の、伸一と常書鴻の語らいは弾み、心はとけ合った。二人は、一九九二年(平成四年)までに七回の会談を重ねることになる。
 そして九〇年(同二年)には、それまでの意見交換をまとめ、対談集『敦煌の光彩――美と人生を語る』が発刊されている。
 未来に友好と精神文化のシルクロードを開きたいとの、熱い思いからの対話であった。

新人間革命 雄飛(4)|2017年6月19日

 北京大学では、講演に引き続き、四川大学への図書贈呈式が行われた。当初、山本伸一は、四川省成都にある四川大学を訪問する予定であったが、どうしても日程の都合がつかず、ここでの贈呈式となったのである。
 四川大学の杜文科副学長に伸一から、図書一千冊の目録と贈書の一部が手渡されると、拍手が鳴り渡った。また一つ新たな教育・文化交流の端緒が開かれたのである。
  
 二十三日午前には、敦煌文物研究所(後の敦煌研究院)の常書鴻所長夫妻と、宿舎の北京飯店で会談した。
 常書鴻は七十六歳である。敦煌美術とシルクロード研究の世界的な権威として知られ、第五期全国人民代表大会代表でもある。彼は、前日、西ドイツ(当時)から帰国したばかりであったが、旅の疲れも見せずに会談に臨んだ。
 伸一はまず、常所長が、敦煌研究に突き進んでいった理由について尋ねた。
 興味深い答えが返ってきた。
 ――一九二七年(昭和二年)、二十三歳の時、西洋画を学ぶためにフランスへ留学した。そのパリで、敦煌に関する写真集と出合う。すばらしい芸術性に驚嘆した。しかし、それまで、祖国・中国にある敦煌のことを、全く知らなかったのである。これではいけないと思い、三六年(同十一年)、敦煌芸術の保護、研究、世界への紹介のために、すべてを捨てて中国に帰ってきたのだ。
 四三年(同十八年)、研究所設立の先遣隊として、念願の敦煌入りを果たす。以来、三十七年間にわたって敦煌で生活を続け、遺跡の保存、修復等に尽力してきた。
 「敦煌の大芸術は千年がかりでつくられたものです。ところが、その至宝が海外の探検隊によって、国外へ持ち去られていたんです」
 こう語る常書鴻の顔には、無念さがあふれていた。その悔しさを情熱と執念に変え、保護、研究にいそしんできたにちがいない。不撓不屈の執念こそが、大業成就の力となる。

新人間革命 雄飛(8)|2017年6月23日

f:id:akkai005:20170627070313j:plain

 山本伸一との語らいで華国鋒主席は、十億を超える中国人民の衣食住の確保、とりわけ食糧問題が深刻な課題であるとし、まず国民経済の基礎になる農業の確立に力を注ぎたいと述べた。農民の生活が向上していけば、市場の購買力は高まり、それが工業発展の力にもなるからだという。
 その言葉から、膨大な数の人民の暮らしを必死に守り、活路を見いだそうとする中国首脳の苦悩を、伸一は、あらためて実感した。
 政治は、現実である。そこには、人びとの生活がかかっている。足元を見すえぬ理想論は空想にすぎない。現実の地道な改善、向上が図られてこそ、人びとの支持もある。
 また、伸一は、革命が成就すると官僚化が定着し、人民との分離が生じてしまうことについて意見を求めた。
 華主席は、官僚主義の改革こそ、「四つの現代化」を進めるうえで重要な課題であるとし、そのために、「役人への教育」「機構改革」「人民による監督」が必要であると語った。
 指導的な立場にある人が、「民衆のため」という目的を忘れ、保身に走るならば、いかなる組織も硬直化した官僚主義に陥っていく。
 ゆえに、リーダーは、常に組織の第一線に立ち、民衆のなかで生き、共に走り、共に汗を流していくことである。また、常に、「なんのため」という原点に立ち返り、自らを見詰め、律していく人間革命が不可欠となる。
 華主席は、五月末に訪日する予定であった。語らいでは、日中友好の“金の橋”を堅固にしていくことの重要性も確認された。
 この北京では、創価大学で学び、今春、帰国した女子留学生とも語り合った。
 「今」という時は二度とかえらない。ゆえに伸一は、一瞬たりとも時を逃すまいと決め、一人でも多くの人と会い、対話し、励まし、友好を結び、深めることに全精魂を注いだ。
 文豪トルストイは記している。
 「重要なことは、何よりもまず、今、自分が置かれた状況にあって、最高の方法で、現在という時を生きることである」(注)

 小説『新・人間革命』の引用文献
 注 『レフ・トルストイ全集第69巻』テラ出版社(ロシア語)

都議選2017は公明党の大勝利

「政治は、現実である。そこには、人びとの生活がかかっている。足元を見すえぬ理想論は空想にすぎない。現実の地道な改善、向上が図られてこそ、人びとの支持もある」とは、今回の「新人間革命 雄飛8」における、池田先生の政治に関する重要なご指導です。

言うまでも無く、現与党・公明党を設立されたのは、池田大作先生です。故に、公明党は、現実の人々の生活の改善と向上を図る政党でなくてはなりません。

折りしも、2017年の都議会議員選挙では、各選挙区で激戦が展開されています。

公明党は与党であれ野党であった時であれ、「大衆と共に」との現実的な行動を貫いて来ました。

しかしながら、どうしても、実績はさて置き、風評・人気で左右されてしまうのが「選挙」の悲しいところでもあります。

都議選 公明党 候補者の最新情勢(都議選2017)

故に、なんとしても都議会公明党には大勝利してもらいたく念願致します。

新人間革命 第18巻のあらすじ(各章要旨)

新・人間革命 第18巻の各章ごとのあらすじ(要旨)は以下のとおり。

師子吼 あらすじ

1973年(昭和48年)7月、山本伸一は、映画「人間革命」の完成試写会に臨んだ。原作は、恩師・戸田城聖の生涯をつづった伸一の小説『人間革命』である。映画化のきっかけは、原作に感動したプロデューサーの要請だった。その熱意に承諾した伸一も、撮影現場を訪れ、俳優やスタッフを励ますなど、誠心誠意、応援した。当代一流の映画人が総力をあげた作品は、記録的な大ヒットとなったのである。

そのころ伸一は聖教新聞社を足繁く訪れていた。「言論・出版問題」以来、一部の記者の間に、安易に社会に迎合して、信心の世界を見下すような風潮が生じていたのだ。その本質は「信心の確信」の喪失である。伸一は記者たちのなかに飛び込み、記事の書き方から生活態度までアドバイスしながら、“広布の使命に生き抜け!”“仏法の眼を磨け!”と、職員の根本精神を教えていく。

さらに通信員大会では、5項目の聖教新聞の基本理念を発表。正義の“師子吼”を放つ言論城が、伸一の手づくりでそびえ立っていったのである。

師恩 あらすじ

鍛錬の夏季講習会。伸一は合計10万人に及んだ参加者を全力で激励。そのなかに5年前に結成した男子部の人材育成グループ「白糸会」もいた。青年たちは、伸一の渾身の励ましに応え、師恩を報じようと懸命に戦い、成長していく。

9月に北海道に飛んだ伸一は、厚田村(当時)の有志による「村民の集い」へ招かれた。村をあげての歓迎は、恩師の故郷を楽土にと願う、伸一と同志が地域に築いた信頼の結実であった。

帰京後も、埼玉や、「山陰郷土まつり」が行われる島根、さらに鳥取を訪問。病苦に打ち勝った友の体験をはじめ、行く先々に、伸一と師弟共戦の凱歌が響いていく。

11月、栃木を訪れた伸一は、県の総会に、小学校の恩師の檜山夫妻を招待する。幾十年が過ぎても、変わらず幼き日の恩師を讃える伸一。そこに、人間として師恩を報じ、どこまでも師弟の道を貫く信念が輝いていた。

前進 あらすじ

各方面・県・区など各地の組織を強くしてこそ、創価の民衆城を支える柱は盤石になる--全国への伸一の激励は続いた。菊花香る晩秋の愛媛では、聖教新聞の購読推進に大奮闘した同志の心意気に、伸一は、「広布第2章」の前進の光を感じる。香川、徳島に赴いた彼は、広布途上に早世した青年を偲び、求道心をたぎらせ続けた老婦人との劇的な出会いなどを刻みながら、学会員こそ郷土の繁栄を担う社会の宝であると訴えた。

当時、石油危機による物価高騰と不況が深刻化し、中小企業の多い地域で苦闘する同志も多かった。しかし、混迷の世相だからこそ、信心という原点をもった学会員が社会の希望となる。師走にかけて、東京各区を回った伸一は、烈々と叫ぶ。「不況に負けるな! 今こそ信心で勝て!」

1973年(同48年)の掉尾を飾る本部総会が、初めて関西で開催された。明年の「社会の年」へ、同志は、人間主義の新時代を開くため、勇んで大前進を開始する。

飛躍 あらすじ

世界経済の激動で明けた74年(同49年)。「大悪は大善の来るべき瑞相」(御書1467ページ)と、学会は逆境を希望に転ずる確信で「社会の年」を出発した。年頭から伸一が力を注いだのは、広宣流布の基盤である座談会の充実だった。その成功のために彼は、中心者の一念の大切さ等を、折あるごとに訴える。

北九州での青年部総会、福岡・田川の友を激励した伸一は、1月下旬、鹿児島から香港へ飛ぶ。10年ぶりの香港は、実に8000世帯に大発展。皆の功徳満開の姿が、伸一の最高の喜びであった。同志は、誤認識の批判をはね返し、社会に着実に信頼を広げてきた。伸一は、香港市政局公立図書館、香港大学、香港中文大学を訪れ、文化・教育交流に新たな一歩を踏み出す。さらに「東南アジア仏教者文化会議」に出席。世界広布の大飛躍の時を、伸一は命を賭してつくり続けた。

新・人間革命を読む【楽天ブックス】

新・人間革命をスマホで読む【楽天ブックス(電子書籍)】

「人間革命」を読む【楽天ブックス】

「人間革命」をスマホで読む【楽天ブックス(電子書籍)】

新人間革命のあらすじ 第18巻は全4章

  1. 新人間革命 あらすじ 師子吼の章
  2. 新人間革命 あらすじ 師恩の章
  3. 新人間革命 あらすじ 前進の章
  4. 新人間革命 あらすじ 飛躍の章

新人間革命 雄飛(3)|2017年6月17日

f:id:akkai005:20170618135324j:plain

 山本伸一たち訪中団一行は、二十二日の午後、北京大学を訪問し、季羨林副学長らの歓迎を受けた。同大学の臨湖軒で、創価大学との学術交流に関する議定書の調印が行われ、その際、北京大学から、伸一に名誉教授の称号授与の決定が伝えられた。
 伸一は、謝意を表したあと、この日を記念し、「新たな民衆像を求めて――中国に関する私の一考察」と題する講演を行った。
 中国は、「神のいない文明」(中国文学者・吉川幸次郎)と評され、おそらく世界で最も早く神話と決別した国であるといえよう。
 講演では、司馬遷が、匈奴の捕虜になった武将・李陵を弁護して武帝の怒りを買い、宮刑に処せられた時、「天道」は是か非かとの問いを発していることから話を起こした。わが身の悲劇という個別性のうえに立って、「天道」の是非をただす司馬遷の生き方は、「個別を通して普遍を見る」ことであり、それは中国文明の底流をなすものであるとし、こう論じていった。
 ――それに対して、西洋文明の場合、十九世紀末まで、この世を支配している絶対普遍の神の摂理の是非を、人間の側から問うというよりも、神という「普遍を通して個別を見る」ことが多かった。つまり、神というプリズムを通して、人間や自然をとらえてきた。そのプリズムを、歴史と伝統を異にする民族に、そのまま当てはめようとすれば、押しつけとなり、結局は、侵略的、排外的な植民地主義が、神のベールを被って横行してしまうと指摘したのである。
 さらに伸一は、現実そのものに目を向け、普遍的な法則性を探り出そうとする姿勢の大切さを強調。その伝統が中国にはあり、トインビー博士も、中国の人びとの歴史に世界精神を見ていたことを語った。そして、「新しい普遍主義」の主役となる、新たな民衆、庶民群像の誕生を期待したのである。
 伸一は、中国の大きな力を確信していた。それゆえに日中友好の促進とアジアの安定を願い、訪中を重ねたのである。