新人間革命 雄飛(34)|2017年7月25日
五月八日正午前、山本伸一は、関西文化会館を出発し、新大阪文化会館に立ち寄り、午後一時過ぎの新幹線で名古屋へ向かった。
九州から、五月二日に関西入りして以来七日間、伸一は、七万人以上の同志と会い、激励を重ねた。
また、その間に中大阪文化会館も訪れている。同会館には、一九六九年(昭和四十四年)十二月、関西指導に赴いた伸一が高熱に見舞われ、一夜を過ごした仏間があり、今は、そのフロアが関西婦人会館として使われていた。
あの時、妻の峯子は東京から駆けつけ、夜通し看病した。伸一は、幾分、熱が下がると、無理を押して和歌山行きを断行した。県立体育館で行われた和歌山県幹部会に出席し、全力で指導したあと、参加者の要請に応えて、「武田節」の指揮を執った。会合が終わり、退場した時には、フラッとして足がもつれた。力を使い果たしていたのだ。彼は、もしも、ここで倒れても本望だと思っていた。
日々、挑戦と苦闘の連続であった。こうした真剣勝負の行動の積み重ねによって、広宣流布の創価の大道が開かれてきたのである。たとえ時代は変わっても、不二の同志には、この不惜の精神を受け継いでほしかった。
「日興遺誡置文」には、「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事」(御書一六一八ページ)と仰せである。その精神が途絶えたならば、世界広布の大願成就はあり得ないからだ。
伸一は、五月一日に行われた関西婦人会館の開館式を記念し、句を詠み、贈った。
「断断固 関西護れや わが城を」
また、妻の峯子は、この関西滞在中に来館し、芳名録に、こう認めた。
「学会の 母の館に 集い来て
心豊かに 広布に走らむ」
九州に続いて関西も、伸一と共に雄々しく立ち上がった。学会の不屈の強さは、師弟共戦のスクラムにこそある。
“さあ、次は中部だ!”
彼は、闘魂をたぎらせた。