新人間革命 雄飛 の章
七月下旬、山本伸一は、「忘れ得ぬ同志」と小説『人間革命』を担当する「聖教新聞」の記者たちと、神奈川研修道場で打ち合わせを行った。彼が、『人間革命』の連載再開を告げると、編集担当者は驚いた顔をした。そして、ためらいがちに話し始めた。 「読者は…
学会が山脇友政を告訴した六月七日、宗門の宗会議員選挙の結果が発表された。学会攻撃を続ける若手僧らが、十六議席のうち過半数を占める十議席を獲得した。七月三日には選挙後初の宗会が開かれ、彼らが宗会議長などの主要ポストを得たのだ。 そして翌四日、…
山脇友政が陰でつながっていたのが、教学部長の原山高夫であった。彼は、前年の一九七九年(昭和五十四年)九月、聖教新聞社に保管されていた資料文書の大量のコピーを運び出した。山脇は、それらを使いながら学会と宗門の離間工作を企て、マスコミにも歪曲…
東京は、青葉の季節であった。 山本伸一は、広宣流布への飛翔を阻む謀略の鉄鎖を断ち切り、大鷲のごとく希望の青空へ飛び立った。 第五次訪中、そして、長崎、福岡、大阪、愛知、岐阜、静岡の指導を終えて信濃町に戻った伸一は、本陣・東京の再構築をめざし…
山本伸一は、岐阜文化会館から各務原文化会館に移動した。ここにも、彼の岐阜訪問を聞いた大勢の同志が集い、会館は人であふれ、玄関から入ることはできなかった。 「よし、自由勤行会をやろう!」 伸一は、こう言うと、建物の外にある螺旋状の非常階段を上…
五月九日、愛知県名古屋市の中部文化会館は、朝から長蛇の列が続いた。 「支部長、婦人部長の勤行会を行おう。しかし、役職に関係なく、来たい方には皆、声をかけてください。自由勤行会です!」 同志は、欣喜雀躍して中部文化会館をめざした。会館は、勤行…
五月八日正午前、山本伸一は、関西文化会館を出発し、新大阪文化会館に立ち寄り、午後一時過ぎの新幹線で名古屋へ向かった。 九州から、五月二日に関西入りして以来七日間、伸一は、七万人以上の同志と会い、激励を重ねた。 また、その間に中大阪文化会館も…
六日は、午後から夜にかけて、三回にわたって関西指導部の勤行会が関西文化会館で行われた。山本伸一は、この日も、いずれの勤行会にも出席した。 婦人には、「南無妙法蓮華経と唱うるより外の遊楽なきなり」(御書一一四三ページ)との御文を拝して、「幸福…
関西文化会館に戻った山本伸一は、設営グループ「鉄人会」メンバーが集っていることを聞くと、「お会いしよう」と、喜び勇んで励ましの語らいを重ねた。 実は、メンバーは伸一に使ってほしいと、イスを作って届けていた。彼は、その真心に応えたかった。また…
五日の午後、山本伸一は、まず、大阪の男子部部長会に出席して指導した。 「地道な戦いのなかに人生の開花がある。青年時代は悩みと葛藤の日々かもしれない。しかし、焦ることなく、着実に、粘り強く、信心、学会活動に励み、生活の場で、職場で実証を示して…
五月五日は、「創価学会後継者の日」である。関西文化会館では、午前十一時から、高等部、中等部、少年・少女部の代表が集い、第五回「後継者の日」記念勤行会が行われた。 一年前、山本伸一は神奈川文化会館でこの日を迎えた。未来部員の集いに出席して、メ…
四日は、関西文化会館の落成を祝う大阪支部長会が、四回に分けて開催されることになっていた。山本伸一は、“大事な支部長・婦人部長の皆さんと、共に新しいスタートを切りたい”と、すべての支部長会に出席し、全魂を注いで指導した。 「健康第一で、はつらつ…
五月四日の午前中、山本伸一は、大阪府豊中市の関西戸田記念講堂で行われた鳥取県の勤行会に出席した。わざわざ鳥取から集って来た同志である。彼は力の限り励まし、勇気づけたいと会場に駆けつけた。 鳥取の友の会合に出席するのは、一九七八年(昭和五十三…
山本伸一は、記念勤行会のあと、関西文化会館内の別会場へ足を運び、集っている同志を励ました。さらに、夕方五時からの記念勤行会にも出席した。 彼は、ピアノも弾いて激励した。随所で、参加者と記念撮影し、固い握手を交わし続けた。いつの間にか彼の手は…
関西文化会館では、会長の十条潔が出席して、既に記念勤行会が始まっていた。 山本伸一は、会場である同会館の三階に向かい、勤行会の最後に入場した。皆、今か今かと、伸一の登場を待っていただけに、喜びは一気に爆発した。彼はマイクに向かった。 「輝く…
山本伸一は、別館の外にある非常階段に向かった。役員の青年が言った。 「別館の広間の常勝会館は第二会場で、本会場の話を音声で聴けるようになっています」 「そこにいらっしゃる方々を、まず最初に激励しよう」 非常階段を上る伸一に峯子も続いた。 この…
五月三日、関西文化会館では、「創価学会の日」記念勤行会が開催されることになっていた。開会は午後一時の予定であった。 しかし、朝からメンバーは喜々として集い、周辺は、人であふれた。しかも、ほとんどが勤行会の入場整理券を持たない人たちであった。…
福岡へ向かう車中、山岡武夫は、宗門僧への憤怒と悔しさを必死に堪えていた。 山岡が訪ねた住職は、「自分たちから学会員に、脱会して寺につくように言ったりはしない」と言明していた。ところが、卑劣にも、陰で脱会を唆したのだ。その点を突いても、言を左…
山本伸一は、五月一日午後、福岡市西区(後の早良区)の九州記念館を訪問。夜には博多区の九州平和会館での福岡県本部長会に出席し、師子の魂を注ぎ込む思いで訴えた。 「『広宣流布の胸中の旗』を、断じて降ろしてはならない!」 「『折伏の修行の旗』を、…
三十日の夕刻、山本伸一は福岡市博多区の九州文化会館(後の福岡中央文化会館)に着いた。車を降りて最初に向かったのは、会館に集って来た同志のところであった。 多くの人たちは、会館には来たものの、伸一とは会えないのではないかとの思いがあった。それ…
山本伸一が長崎駅に到着すると、彼を見送ろうと、たくさんの人たちが来ていた。 伸一は、駅員や乗客の迷惑にならないように気遣いながら、励ましの言葉をかけた。 「ありがとう。皆さんのご苦労を、私はよく知っております」 「幸せになってください。いや、…
三十日、山本伸一は午後一時過ぎに長崎を発って、列車で福岡に向かう予定であった。彼は、その前に、どうしても訪問しておきたいところがあった。稲佐町にある、壮年部県書記長の大林喜久丸の家である。 一九七三年(昭和四十八年)の三月、北九州市で行われ…
三十日、山本伸一は午後一時過ぎに長崎を発って、列車で福岡に向かう予定であった。彼は、その前に、どうしても訪問しておきたいところがあった。稲佐町にある、壮年部県書記長の大林喜久丸の家である。 一九七三年(昭和四十八年)の三月、北九州市で行われ…
山本伸一は、長崎文化会館から、報道各社合同の記者会見会場である長崎市内のホテルへと急いだ。 記者会見では、第五次訪中で見聞した中国の様子や感想などについての質問を受けた。 そのあと、訪中団メンバーと解団式を兼ねて会食懇談を行い、皆をねぎらっ…
山本伸一は、長崎空港から長崎文化会館へ向かった。彼の長崎訪問は、十二年ぶりであった。 伸一は、県長の梅森嗣也から、文化会館で長崎支部結成二十二周年記念幹部会が行われていることを聞くと、直ちに会場に顔を出した。大拍手がわき起こった。 「お久し…
新しき世紀へ、新しき戦いは開始された。 四月二十九日の午後一時四十分(現地時間)、山本伸一たち一行は、上海虹橋空港を発ち、帰国の途に就いた。伸一が向かった先は、九州の長崎であった。 彼は、新たな広宣流布の道を開くために、今こそ、創価の師弟を…
人は、出会いによって「知人」となり、語らいを重ねることで「友人」となり、真心を尽くし、共感し合うことで「心友」となる。 山本伸一と巴金は、さらに交流を続け、深い信頼と強い友誼の絆に結ばれていく。 巴金は、その後、中国作家協会の主席となる。二…
訪中前の日本での語らいで、山本伸一は、巴金ら中国作家代表団に、「次回は、革命と文学、政治と文学、平和と文学などについて語り合いましょう」と言って、再び会うことを約したのである。 そして、第五次訪中で、二十四日に伸一が主催した北京での答礼宴の…
山本伸一は、二十八日、蘇歩青との会談に続き、夕刻には作家・巴金の訪問を受けた。 巴金は、『家』『寒夜』などの作品で世界的に著名な中国文学界の重鎮であり、中国作家協会の第一副主席であった。 巴金との会談は、これが二回目であった。 今回の訪中を控…
二十八日の午後、宿舎の錦江飯店に戻った山本伸一のもとへ、復旦大学の蘇歩青学長が訪れた。伸一は、復旦大学へは一九七五年と七八年(昭和五十年と五十三年)に図書贈呈のために訪問しており、蘇学長とは旧知の間柄である。 蘇歩青は著名な数学者であり、こ…