人革速報

新人間革命での池田先生のご指導に学ぶブログです。

新人間革命 雄飛(20)|2017年7月7日

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 山本伸一長崎駅に到着すると、彼を見送ろうと、たくさんの人たちが来ていた。
 伸一は、駅員や乗客の迷惑にならないように気遣いながら、励ましの言葉をかけた。
 「ありがとう。皆さんのご苦労を、私はよく知っております」
 「幸せになってください。いや、絶対になれると、確信して進むことが大事です。広宣流布に生き抜いてきた地涌の菩薩が、幸せになれないわけがありません」
 「一緒に、もう一度、新しい創価学会をつくりましょう」
 列車に乗ってからも、会釈し、手を振り、心と心の窓越しの対話が続いた。
 伸一の乗った特急列車は、長崎を発つと、諫早肥前鹿島、肥前山口、佐賀、鳥栖と止まった。どの駅にも学会員が集まって来ていた。彼の福岡行きは、既に新聞発表されていたために、どの列車に乗るかは容易に察しがついたのである。
 皆、伸一の姿を見つけると、満面の笑みで手を振った。しかし、ホームまで来ていながら、柱の陰などに身を潜め、遠くからジーッと彼を見詰める人もいた。伸一を「先生」と呼ぶことさえ、宗門僧から批判されてきただけに、彼に迷惑をかけてはならないと考えていたのである。伸一は、そんな同志が、いとおしくて仕方なかった。ホームに降りていって力の限り励ましたい思いにかられた。
 伸一は、同行の幹部に言った。
 「こうした無名の同志が、今日の学会を築いてこられた。炎暑の夏も、吹雪の冬も、友の幸せを願い、祈り、対話に歩き、広宣流布を現実に進めてくださった。その歩みこそ、社会の、一国の、全人類の宿命転換を成し遂げていく原動力だ。まさに、一人ひとりが、立正安国の実現のために出現した尊き使命の仏子だ。私は、この人たちのために戦う!
 幹部は、この健気な学会員に最大の敬意を表し、最も大切にし、守り励ましていくんだ」
 組織も、また幹部も、すべては、会員、同志の幸福を実現するためにこそある。

新人間革命 雄飛(19)|2017年7月6日

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 三十日、山本伸一は午後一時過ぎに長崎を発って、列車で福岡に向かう予定であった。彼は、その前に、どうしても訪問しておきたいところがあった。稲佐町にある、壮年部県書記長の大林喜久丸の家である。
 一九七三年(昭和四十八年)の三月、北九州市で行われた初の九州青年部総会の折、当時、男子部の長崎総合本部長であった大林と、「長崎に行った時には、必ず君の自宅を訪問させてもらうよ」と約束していたのである。
 その話を聞いた大林の母・倭代は、「それを実現できるようにするのが、弟子の信心です。祈りましょう」と毅然と語った。以来、家族で真剣な唱題が始まった。彼女は、長崎広布の先駆者の一人であった。
 大林の家は、眼下に長崎港を一望する高台にあった。母親の倭代をはじめ、彼の兄、弟、その夫人たちが伸一を迎えた。皆で記念のカメラに納まり、勤行した。
 倭代は、「先生がいつ来られてもいいように」と、手作りの座布団も用意していた。伸一は、その真心に深く感謝しながら、懇談のひとときを過ごした。話題は、一年前の会長・法華講総講頭の辞任に及んだ。
 ――そのニュースをテレビで知った倭代は、体を震わせて激怒し、こう叫んだという。
 「とんでもないことだ! 何かの謀略です。こんなことを許してはならない」
 道理に反すること、恩知らず、広宣流布を破壊する悪は絶対に許さぬというのが、母の信念であった。威張りくさった僧の横暴にも“今に見よ! 正義は必ず勝つ!”との思いで、この苦汁の一年を過ごしてきたのだ。
 いかなる外圧も、同志の心に滾々と湧く、創価の精神の泉を枯渇させることはできない。
 「ありがとう! その精神は、見事に、息子さんたちが受け継いでくれています。お母さんは勝ったんです。私もこれからは自由に動きます。また長崎にも来ますよ」
 語らいを終えた時、地元の女子部の幹部が指導を受けたいと言って訪ねてきた。伸一は出発時刻ぎりぎりまで、彼女を励ました。

新人間革命 雄飛(19)|2017年7月6日

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 三十日、山本伸一は午後一時過ぎに長崎を発って、列車で福岡に向かう予定であった。彼は、その前に、どうしても訪問しておきたいところがあった。稲佐町にある、壮年部県書記長の大林喜久丸の家である。
 一九七三年(昭和四十八年)の三月、北九州市で行われた初の九州青年部総会の折、当時、男子部の長崎総合本部長であった大林と、「長崎に行った時には、必ず君の自宅を訪問させてもらうよ」と約束していたのである。
 その話を聞いた大林の母・倭代は、「それを実現できるようにするのが、弟子の信心です。祈りましょう」と毅然と語った。以来、家族で真剣な唱題が始まった。彼女は、長崎広布の先駆者の一人であった。
 大林の家は、眼下に長崎港を一望する高台にあった。母親の倭代をはじめ、彼の兄、弟、その夫人たちが伸一を迎えた。皆で記念のカメラに納まり、勤行した。
 倭代は、「先生がいつ来られてもいいように」と、手作りの座布団も用意していた。伸一は、その真心に深く感謝しながら、懇談のひとときを過ごした。話題は、一年前の会長・法華講総講頭の辞任に及んだ。
 ――そのニュースをテレビで知った倭代は、体を震わせて激怒し、こう叫んだという。
 「とんでもないことだ! 何かの謀略です。こんなことを許してはならない」
 道理に反すること、恩知らず、広宣流布を破壊する悪は絶対に許さぬというのが、母の信念であった。威張りくさった僧の横暴にも“今に見よ! 正義は必ず勝つ!”との思いで、この苦汁の一年を過ごしてきたのだ。
 いかなる外圧も、同志の心に滾々と湧く、創価の精神の泉を枯渇させることはできない。
 「ありがとう! その精神は、見事に、息子さんたちが受け継いでくれています。お母さんは勝ったんです。私もこれからは自由に動きます。また長崎にも来ますよ」
 語らいを終えた時、地元の女子部の幹部が指導を受けたいと言って訪ねてきた。伸一は出発時刻ぎりぎりまで、彼女を励ました。

新人間革命 雄飛(18)|2017年7月5日

 山本伸一は、長崎文化会館から、報道各社合同の記者会見会場である長崎市内のホテルへと急いだ。
 記者会見では、第五次訪中で見聞した中国の様子や感想などについての質問を受けた。
 そのあと、訪中団メンバーと解団式を兼ねて会食懇談を行い、皆をねぎらった。
 彼は、訪中を振り返りながら語った。
 「私は、今回の中国訪問によって、新時代の世界平和への幕が開かれたと思っています。そして、二十一世紀を迎えるこれからの二十年間は、民間交流、教育・文化交流を推進し、世界を結ぶ平和の潮流をつくるうえで、極めて重要な時期であると感じています。
 この間に、中国は大発展を遂げていくだろうし、また、世界は、激動、激変していくでしょう。それだけに、仏法の平和思想、人間主義の哲学を、広く世界に発信していかなくてはならない。したがって、仏法を深く掘り下げ、生命尊厳の法理を、社会に、世界にと展開していく教学運動も大事になります。
 二十一世紀の平和を築くうえで、今こそ、すべての面で、一時の猶予も許されない段階に入っているんです」
 懇談が終わったあと、伸一に同行していた「聖教新聞」の記者が言った。
 「帰国報道のほかに、先生が長崎文化会館で長崎支部結成二十二周年記念幹部会に出席されたことも、記事にしたいと思います」
 「かまいません。事実を隠す必要はない。創価の師弟が分断され、不二の心が失われていけば、広宣流布はできない。だから私は、同志と共に戦いを開始します。私の今後の予定も発表しよう。さあ、反転攻勢だ! 戦闘開始だよ!」
 翌四月三十日付の「聖教新聞」一面には、伸一の帰国や記者会見の模様、記念幹部会への出席の報道とともに、「名誉会長は、長崎のあと福岡、関西、中部の会員の激励・指導に当たる予定になっている」と記されていた。
 この一文は、読者の目をくぎ付けにした。日本列島に歓喜の激震が走った。

新人間革命 雄飛(17)|2017年7月4日

 山本伸一は、長崎空港から長崎文化会館へ向かった。彼の長崎訪問は、十二年ぶりであった。
 伸一は、県長の梅森嗣也から、文化会館で長崎支部結成二十二周年記念幹部会が行われていることを聞くと、直ちに会場に顔を出した。大拍手がわき起こった。
 「お久しぶりです。嵐を乗り越えた長崎の勝利を祝って、全員で万歳をしましょう!」
 梅森が音頭を取り、「長崎創価学会、万歳!」の声が場内に轟いた。
 伸一は、これから市内のホテルで訪中についての記者会見があるため、すぐに出発しなければならないことを告げ、言葉をついだ。
 「人生を勝ち越え、幸福になっていくには、どうすればよいか――。
 仏の生命も、地獄の生命も、わが心のなかにあります。その仏の生命を涌現させることによって、崩れざる幸せを築いていくことができる。それには、自身の一念を広宣流布に定め、自他共の幸福の実現を誓って唱題し、信心し抜いていくことです。
 日蓮大聖人は、『我もいたし人をも教化候へ』『力あらば一文一句なりともかた(談)らせ給うべし』(御書一三六一ページ)と仰せです。広宣流布に走り、折伏・弘教に生きるならば、わが身に仏の大生命が涌現し、あらゆる人生の苦をば、大歓喜に変えていくことができる。ゆえに大聖人は、流罪の地である佐渡にあっても、『我等は流人なれども身心共にうれしく候なり』(同一三四三ページ)と述べられているんです。
 学会員が何百万世帯になった、一千万人になったといったって、今現在、地球上には四十数億の人がいます。まだ数百人に一人、学会員が誕生したにすぎない。そう考えるならば、世界広布は、まだまだ緒についたばかりじゃないですか。いよいよこれからです。二十一世紀が本当の戦いです。
 皆さんは、うんと長生きしてください。そして、共に広宣流布に生き抜きましょう!」
 歓喜と誓いの大拍手が響いた。

新人間革命 雄飛(16)|2017年7月3日

 新しき世紀へ、新しき戦いは開始された。
 四月二十九日の午後一時四十分(現地時間)、山本伸一たち一行は、上海虹橋空港を発ち、帰国の途に就いた。伸一が向かった先は、九州の長崎であった。
 彼は、新たな広宣流布の道を開くために、今こそ、創価の師弟を引き離そうとする退転・反逆者や宗門僧による謀略の鉄鎖を断ち切って、新生の闘争を開始しようと、固く決意していた。そして、中国訪問の帰途、長崎、福岡、大阪、名古屋などで、記念勤行会や各種の会合に出席し、全力で同志を励まそうと決めたのである。
 それによって、広布破壊の魔の勢力が、騒ぎだすであろうことは、よくわかっていた。しかし、“何があろうと、横暴な衣の権威の迫害に苦しんできた会員を守らなければならない”と、心を定めていたのだ。
 この日、長崎空港上空には、美しい虹がかかった。伸一たちが空港に到着したのは、二十九日の午後四時半過ぎであった。
 彼はタラップに立った。空港の送迎デッキでは、「祝 大成功 創価学会第5次訪中団」の横幕を広げ、大勢の学会員が手を振って出迎えてくれた。
 伸一も皆に向かって手を振り返した。この時から、彼の激励行は始まったのである。
 皆の顔には、喜びがあふれていた。
 長崎県長の梅森嗣也は、満面に笑みを浮かべていたが、伸一と握手を交わすと、感極まり、目を潤ませた。長崎空港のある大村もまた、宗門僧らによって苛め抜かれてきた地域であり、彼らは悔し涙を堪えながら、この日が来るのを、待ち続けてきたのだ。
 「師子が来たんだ! もう大丈夫だ。何も心配ないよ」
 女子部の代表が、「先生、お帰りなさい!」と言って、伸一に花束を手渡した。
 「ありがとう! さあ、新出発だよ。広宣流布の長征の開始だ。未来の扉を開こう!」
 前進ある限り、希望の明日は来る。闘魂燃える限り、未来は太陽の輝きに満ちている。

新人間革命 雄飛(15)|2017年7月1日

 人は、出会いによって「知人」となり、語らいを重ねることで「友人」となり、真心を尽くし、共感し合うことで「心友」となる。
 山本伸一と巴金は、さらに交流を続け、深い信頼と強い友誼の絆に結ばれていく。
 巴金は、その後、中国作家協会の主席となる。二〇〇三年(平成十五年)十一月、伸一は、同協会と中華文学基金会から、「理解・友誼 国際文学賞」を受けている。
 この二年後の二〇〇五年(同十七年)、巴金は百歳で永眠する。
 また、謝冰心は、一九九九年(同十一年)に九十八歳で他界している。その前々年の九七年(同九年)、巴金が会長を務める冰心研究会が発起人となって、彼女の功績を宣揚するため、福建省長楽市に「冰心文学館」が設立されている。二〇〇四年(同十六年)九月、同館から、伸一に「名誉館長」、峯子に「愛心大使」の称号が贈られる。
 伸一は、峯子と共に、これらの厚意に応えていくためにも、さらに、日中の文化・芸術の交流と友好の推進に力を注いでいこうと、誓いを新たにしたのである。
  
 二十九日は、第五次訪中団の帰国の日である。伸一は、宿舎とした錦江飯店の総支配人から記帳を望まれると、署名に添えて、「金の橋 訪中五たび 八幡抄」と記した。
 大聖人は、「諫暁八幡抄」に、「月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり」(御書五八八ページ)と断言されている。「仏法西還」の未来記である。
 日蓮仏法の人間主義の光をもって、アジア、世界を照らし、人びとの幸福を築きゆくことこそ、後世の末弟に託された使命である。ゆえに伸一は、この未来記を実現するために、生命を注いで平和旅を続けてきたのだ。
 立正安国をめざすわれら仏法者の社会的使命は、人びとの胸中に、生命の尊厳と慈悲の哲理を打ち立て、社会の繁栄と世界の恒久平和を建設していくことにある。

新人間革命 雄飛(14)|2017年6月30日

 訪中前の日本での語らいで、山本伸一は、巴金ら中国作家代表団に、「次回は、革命と文学、政治と文学、平和と文学などについて語り合いましょう」と言って、再び会うことを約したのである。
 そして、第五次訪中で、二十四日に伸一が主催した北京での答礼宴の折には、謝冰心と再会。さらに、この上海で巴金と二度目の会談が実現したのである。
 伸一が、政治と文学の関係について意見を求めると、彼は即答した。
 「文学は政治から離れることはできない。しかし、政治は、絶対に文学の代わりにはなり得ません。文学は、人の魂を築き上げることができるが、政治にはできないからです」
 話題は、文化大革命に移っていった。
 巴金は文革の時代、「反革命分子」とされ、文芸界から追放された。彼を批判する数千枚の大字報(壁新聞)が張り出され、「売国奴」と罵られもした。彼は、この苦難をきちんと総括し、自分を徹底的に分析し、当時、起こった事柄を、はっきり見極めていくことの大切さを強調した。
 巴金は文化講演会でも、こう訴えている。
 「私は書かなければなりません。私は書き続けます。そのためには、まず自分をより善良な、より純潔な、他人に有益な人間に変えねばなりません。
 私の生命は、ほどなく尽きようとしています。私はなすべきこともせずに、この世を離れたくはありません。私は書かねばならず、絶対に筆を置くことはできません。筆によってわが心に火をつけ、わが体を焼きつくし、灰となった時、私の愛と憎しみは、この世に消えることなく残されるでしょう」
 時代の誤った出来事を看過してはならない。その要因と本質とを深く洞察し、未来のために戦いを開始するのだ。
 会談で巴金は、「今、文革についての小説を書き始めました。ゆっくりと、時間をかけて書いていくつもりです」と語った。
 正義の闘魂が、新しき社会を創る。

新人間革命 雄飛(13)|2017年6月29日

 山本伸一は、二十八日、蘇歩青との会談に続き、夕刻には作家・巴金の訪問を受けた。
 巴金は、『家』『寒夜』などの作品で世界的に著名な中国文学界の重鎮であり、中国作家協会の第一副主席であった。
 巴金との会談は、これが二回目であった。
 今回の訪中を控えた四月五日、中国作家代表団の団長として日本を訪れた彼と、静岡研修道場で初めて懇談したのである。
 ここには、中国作家協会名誉主席で、代表団の副団長として来日した現代中国文学の母・謝冰心らも同席し、文学の在り方や日本文壇の状況、紫式部夏目漱石などをめぐって、活発に意見を交換した。
 この会談の六日後に行われた聖教新聞社主催の文化講演会で巴金は、「私は敵と戦うために文章を書いた」と明言している。彼は、革命前の中国を覆っていた封建道徳などの呪縛のなか、青春もなく、苦悩の獄に繫がれた人たちに、覚醒への燃える思いを注いで、炎のペンを走らせてきたのだ。
 巴金は語っている。
 「私の敵は何か。あらゆる古い伝統観念、社会の進歩と人間性の伸長を妨げる一切の不合理の制度、愛を打ち砕くすべてのもの」
 彼は七十五歳であったが、民衆の敵と戦う戦士の闘魂がたぎっていた。伸一は語った。
 「青年の気概に、私は敬服します。
 今日の日本の重大な問題点は、本来、時代変革の旗手であり、主役である青年が、無気力になり、あきらめや現実逃避に陥ってしまっていることです。そこには、文学の責任もあります。青少年に確固たる信念と大いなる希望、そして、人生の永遠の目標を与える哲学性、思想性に富んだ作家や作品が少なくなっていることが私は残念なんです。
 社会を変えてきたのは、いつの世も青年であり、若い力です。青年には、未来を創造していく使命がある。そして、実際にそうしていける力を備えているんです。断じてあきらめてはならない。それは、自らの未来を放棄してしまうことになるからです」

新人間革命 雄飛(12)|2017年6月28日

 二十八日の午後、宿舎の錦江飯店に戻った山本伸一のもとへ、復旦大学の蘇歩青学長が訪れた。伸一は、復旦大学へは一九七五年と七八年(昭和五十年と五十三年)に図書贈呈のために訪問しており、蘇学長とは旧知の間柄である。
 蘇歩青は著名な数学者であり、この日も数学や教育をめぐっての語らいとなった。そのなかで、「数学は難しいといわれるが、易しく教えることはできるか」との質問に対する学長の答えが、伸一の印象に残った。
 「何事も、『浅い』から『深い』へ、『小』から『大』へ、『易しいもの』から『難しいもの』へという過程があります。無理をさせずに、その一つ一つの段階を丹念に教え、習得させていくことで、可能になります」
 さらに学長は、力を込めて語った。
 「つまり、学ぶ者としては、一歩一歩、おろそかにせず、着実に学習していくことが大事です。そして、自分の最高の目標をめざして、歩み続けていくことです。しかし、そこに到達するまでには、“とうてい出来ない”と思うこともあるでしょう。まさに、この時が勝負なんです。そこで我慢し、忍耐強く、ある程度まで歩みを運んでいくと、開けていくものなんです。それは、『悟る』ということに通じるかもしれません」
 何かをめざして進む時には、必ず「壁」が生じる。そこからが、正念場であるといえよう。それは、自分自身との戦いとなる。あきらめ、妥協といった、わが心に巣くう弱さを打ち砕き、前へ、前へと進んでいってこそ、新たな状況が開かれるのだ。勝者とは、自らを制する人の異名である。
 伸一は蘇歩青と、その後も交流を重ね、二人の語らいは六回に及ぶことになる。
 八七年(同六十二年)六月、伸一は、復旦大学の名誉学長となっていた蘇歩青との友情と信義の証として、詩「平和の大河」を贈った。そこには、こうある。
 「大河も一滴の水より 平和の長江へ 我等 その一滴なりと ともどもに進みゆかなむ」