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新人間革命に学ぶ

新人間革命での池田先生のご指導に学ぶブログです。

新人間革命 雌伏(9)|2017年4月3日

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山本伸一戸田城聖から軽井沢に招かれ、戸田の小説『人間革命』の感動を語りながら、深く心に期すことがあった。
 ――戸田の『人間革命』は、彼の分身ともいうべき「巌さん」が、獄中で、生涯を広宣流布に生き抜く決意をしたところで終わる。
 一九四五年(昭和二十年)七月三日、戸田は、獄死した師の牧口常三郎の遺志を受け継ぎ、生きて獄門を出る。その後、戸田が現実に何を成し遂げ、いかにして日本の広宣流布の基盤を築き上げたか――伸一は、それを書き残さなければ、師の偉業を宣揚することも、牧口と戸田を貫く創価の師弟の精神を後世に伝えることもできないと思った。
 そして伸一は、こう自覚したのである。
 “先生の真実を記すことができるのは、私しかいない。また、それが先生の私への期待であり、弟子としての私の使命であろう”
 この時、彼は、これまでに何度か考えてきた、戸田の『人間革命』の続編ともいうべき伝記小説の執筆を、確固不動の決意としたのだ。長野県は、創価の師弟の精神を永遠ならしめる誓いの天地となったのである。
   
 長野研修道場がオープンしたのは、一年前の一九七八年(昭和五十三年)八月である。伸一にとっては今回が初訪問となる。彼は、戸田が最後の夏に滞在した地を、世界広宣流布への新たな幕を開く最初の夏に訪れたのである。この宿縁の地から、家庭訪問、個人指導の流れを起こし、新しい創価学会の建設に着手しようと心に決めていたのだ。
 世界広布といっても、一人への励ましから、身近な一歩から始まるからだ。
 伸一の決意は、研修道場に向かうために乗車した列車の中から、行動に移された。
 彼の姿を見て、あいさつに来た青年に対して、「ふと会いし 君もわが弟子 幸の旅」と句を認めて贈った。さらに、列車を降りる時には、「ご両親によろしく。立派な人になるんだよ」と言って握手を交わした。
 「決意即行動」である。

新人間革命 雌伏(8)|2017年4月1日

戸田城聖の小説『人間革命』では、主人公「巌さん」の人間革命の軌跡を主軸に、広宣流布に一人立った、師である「牧田城三郎」(牧口常三郎の仮名)の死身弘法の実践が描かれていく。
 戸田は、一九五四年(昭和二十九年)の十一月、初代会長・牧口常三郎の十一回忌法要で、獄中にあって大恩ある牧口の死を知った日のことに触れ、こう語った。
 「あれほど悲しいことは、私の一生涯になかった。そのとき、私は『よし、いまにみよ! 先生が正しいか、正しくないか、証明してやる。もし自分が別名を使ったなら、巌窟王の名を使って、なにか大仕事をして、先生にお返ししよう』と決心した」
 「巌窟王」とは、アレクサンドル・デュマの小説『モンテ・クリスト伯』の黒岩涙香による邦訳名である。
 ――陰謀によって孤島の牢獄シャトー・ディフにとらえられた船員の青年エドモン・ダンテスは、獄中で老神父からさまざまな知識を授かり、モンテクリスト島に隠された財宝の在りかも教わる。十四年の幽閉生活の後に脱獄に成功した彼は、その巨額の富を手にし、モンテ・クリスト伯と名乗り、パリの社交界に現れ、自分を陥れた者たちへの復讐を図るとともに、善良な恩人たちへの恩返しを果たすという物語である。
 戸田は、この「巌窟王」のごとく臥薪嘗胆し、軍部政府の弾圧で殉教した師の敵を討つことを深く心に誓ったのだ。その復讐とは、恩師の正義を証明することであった。そして牧口を死にいたらしめ、戦争によって多くの人びとの命をも奪い、苦悩の辛酸をなめさせた権力の魔性との対決であった。民衆の幸福と人類の平和を実現することであった。
 ゆえに戸田は、小説『人間革命』の主人公の名を、「巌窟王」をもじって「巌九十翁」とし、全精魂を注いで、牧口の正義と偉大さを書き残していったのである。
 師の正義を宣揚し抜いていくことこそ、弟子に課せられた責務にほかならない。

新人間革命 雌伏(7)|2017年3月31日

八月二十日の午後、山本伸一は、東京・台東文化会館を訪問したあと、長野県・軽井沢町の長野研修道場へ向かった。
 軽井沢は、戸田城聖が逝去前年の一九五七年(昭和三十二年)八月に訪れ、最後の夏を過ごした地である。滞在中、戸田は、伸一と森川一正を招き、鬼押出に車を走らせて、奇岩の連なる景観を見せ、ホテルで共に食事をした。大阪事件で不当逮捕された伸一を、ねぎらいたかったのである。
 食事をしながら、師弟の語らいは弾み、話題は、戸田が「妙悟空」のペンネームで執筆した小説『人間革命』に及んだ。この小説は、五一年(同二十六年)四月の「聖教新聞」の創刊号から連載されてきたもので、この五七年(同三十二年)七月に単行本として発刊されたばかりであった。
 小説の主人公「巌さん」は、印刷工場に勤め、八軒長屋に住む市井の壮年である。
 その「巌さん」が、「牧田城三郎」(牧口常三郎の仮名。後の出版では本名に改める)の折伏を受け、日蓮大聖人の仏法を実践するようになり、信仰の実証を示し、やがて印刷会社の社長となる。さらに学会の理事長に就任し、牧田会長を支えていくのだ。
 しかし、戦時中の軍部政府の弾圧で、会長の「牧田先生」も、牧田を師と慕う「巌さん」も、共に投獄されてしまう。「巌さん」は、獄中にあって唱題を重ね、法華経を読み進むなかで、自分は、法華経で説かれた虚空会の会座にいた地涌の菩薩であることを悟達する。そして、生涯、この法華経を弘めていこうと決意するところで、小説は終わる。
 小説の前半、「巌さん」は、戸田城聖とは全く異なる架空の人物として描かれていくが、後半の「巌さん」の体験は、戸田自身の体験となる。特に逮捕・投獄され、広宣流布の使命を自覚する獄中の悟達は、現実そのものの描写であり、創価学会の精神の原点が浮き彫りにされている。
 「おれは地涌の菩薩ぞ!」――この「巌さん」の叫びこそ、創価の確信の源である。

新人間革命 雌伏(6)|2017年3月30日

八月六日から八日まで、法主・日達の通夜、本葬が営まれ、山本伸一をはじめ、学会の首脳、代表も参列した。
 この夏、世界四十一カ国三地域のSGIメンバー千三百人が来日していた。伸一は、十三日に神奈川文化会館で開かれた国際親善友好の集いや、十五日に行われた東京戸田記念講堂での世界平和祈願勤行会に、SGI会長として出席し、メンバーを激励した。
 彼は、いかなる状況下にあろうが、広宣流布のために奮闘し、世界各地から求道の心を燃やして来日した健気な同志を、励まさずにおくことなど、絶対にできなかった。
 日蓮大聖人は仰せである。
 「法華経の一偈一句をも説かん者をば『当に起ちて遠く迎えて当に仏を敬うが如くすべし』の道理なれば仏の如く互に敬うべし」(御書一三八三ページ)と。しかも大聖人は、この「当起遠迎、当如敬仏」(法華経六七七ページ)の文を「最上第一の相伝」(御書七八一ページ)とされたのである。
 根本とすべきは、大聖人の御指導である。
 伸一の胸中には、いよいよ世界広布の新時代が到来したとの思いが、日々強まっていた。
 国際親善友好の集いで伸一は訴えた。
 「世界から千三百人ものメンバーが、大聖人の仏法を求めて来日したこと自体、仏法史上、画期的な出来事です。皆さんは、世界広宣流布の未聞の道を開いている先駆者であり、歴史の創造者であるとの自覚を忘れないでください。
 それぞれの国へ帰れば、メンバーはまだ少なく、広大な地域に、信心しているのは自分しかいないということも多いにちがいない。しかし、大事なのは一人立つことです。
 日蓮大聖人は、お一人から、広宣流布の波を起こされた。戦後の学会の再建も、戸田城聖先生が、ただ一人立たれたことから始まっています。それが、仏法者の精神であり、学会精神です。
 今こそ、師子となって、一人立とうではありませんか! 私も立ちます!」

新人間革命 雌伏(5)|2017年3月29日

山本伸一法華講総講頭、学会の会長を辞任することで、若手僧らによる学会攻撃はピリオドが打たれることになっていた。
 五月一日には、宗務院から「院達」として、次のような事項が徹底されている。
 「御講等に於ては、御書による教義以外の説法は固く禁ずる。従来、しばしばこれについての通達あるにもかかわらず、乱れが見られたが自今以後は厳しく自誡せられたい」
 「創価学会員に対しては、自分からの意志・希望によって檀徒となることを申出た者は受け入れて差支えないが、それ以外は一切の働きかけを固く禁止する」
 「院達」を無視して学会誹謗を続ける僧には、法主の日達も叱責することがあった。ところが、若手僧の寺の多くが、御講の席などで、学会への中傷、攻撃を繰り返していたのである。また、学会員を檀徒にする動きも、むしろ活発化していた。
 もはや彼らは、宗務院の言うことも、さらには、法主の言うことさえも、耳を傾けようとはしなくなっていたのだ。宗内は、次第に混乱の様相を見せ始めていたのである。
 七月二十二日午前六時過ぎのことであった。伸一のもとに日達法主が亡くなったとの連絡が入った。日達は、十七日、福岡の寺院の法要に出席し、十八日に総本山に戻るが、翌十九日朝、体調が優れず、富士宮市内の病院に入院した。そして、二十二日午前五時五分、心筋梗塞のため息を引き取ったのである。七十七歳であった。
 伸一は、直ちに神奈川文化会館から弔問に向かった。午前九時前には総本山に到着。懇ろに唱題、焼香し、冥福を祈った。
 この日夜から、大客殿で仮通夜が営まれ、席上、重役である僧から、「重大発表」があった。それは、総監の阿部信雄が、前年四月、日達から内々に相承を受けており、彼が第六十七世の法主になることが決まったというものである。この時も、広宣流布のために和合を願い、宗門を守っていくというのが、学会の姿勢であった。

新人間革命 雌伏(4)|2017年3月28日

山本伸一は、平和友好の対話を積極的に推進していった。
 五月二十五日には、ザンビアのM・K・チーフ・マパンザ駐日大使と会談し、二十九日には、中国文芸界の指導者・周揚夫妻と語り合った。六月も、ニュージーランドのR・M・ミラー駐日大使や、ナイジェリアのB・A・T・バレワ駐日大使らと対話を広げている。
 伸一は、特に、アフリカの関係者との語らいに力を注ぐようにしていた。それは、二十一世紀は「アフリカの世紀」になるというのが、彼の信念であったからだ。また、長年、大国の植民地として支配され、貧困や飢餓に苦しんできたアフリカの平和と繁栄が約束されなければ、人類の未来はないと痛感していたからである。
 彼は、海外の要人と会談する一方で、日本の有識者とも対話を重ねていった。
 また、その間隙を縫うようにして、神奈川県横浜市鶴見区港北区、東京の板橋区中央区、豊島区、小金井市小平市など、行く先々で、共に広宣流布に汗を流してきた同志の家を訪問し、激励に努めた。
 広宣流布の師弟の心が強く結ばれていれば、いかなる嵐にも創価スクラムは微動だにしない。そのためには胸襟を開いた対話が不可欠であり、その生命の触発が使命の自覚を促すとともに、信頼の絆を育んでいく。
 伸一は、草創の同志と会うと、決まって言うことがあった。それは、「人生は、総仕上げの時が、最も大切である」ということであった。過去にどんなに活躍し、栄光の歴史を残したとしても、晩年になって退転してしまえば、結局は敗北の人生となってしまう。
 日蓮大聖人は、「譬えば鎌倉より京へは十二日の道なり、それを十一日余り歩をはこ(運)びて今一日に成りて歩をさしをきては何として都の月をば詠め候べき」(御書一四四〇ページ)と仰せである。
 「生涯求道」「生涯挑戦」「生涯闘争」の精神を持ち続けていくなかにこそ、三世永遠にわたる燦然たる生命の勝利がある。

新人間革命 雌伏(4)|2017年3月28日

山本伸一は、平和友好の対話を積極的に推進していった。
 五月二十五日には、ザンビアのM・K・チーフ・マパンザ駐日大使と会談し、二十九日には、中国文芸界の指導者・周揚夫妻と語り合った。六月も、ニュージーランドのR・M・ミラー駐日大使や、ナイジェリアのB・A・T・バレワ駐日大使らと対話を広げている。
 伸一は、特に、アフリカの関係者との語らいに力を注ぐようにしていた。それは、二十一世紀は「アフリカの世紀」になるというのが、彼の信念であったからだ。また、長年、大国の植民地として支配され、貧困や飢餓に苦しんできたアフリカの平和と繁栄が約束されなければ、人類の未来はないと痛感していたからである。
 彼は、海外の要人と会談する一方で、日本の有識者とも対話を重ねていった。
 また、その間隙を縫うようにして、神奈川県横浜市鶴見区港北区、東京の板橋区中央区、豊島区、小金井市小平市など、行く先々で、共に広宣流布に汗を流してきた同志の家を訪問し、激励に努めた。
 広宣流布の師弟の心が強く結ばれていれば、いかなる嵐にも創価スクラムは微動だにしない。そのためには胸襟を開いた対話が不可欠であり、その生命の触発が使命の自覚を促すとともに、信頼の絆を育んでいく。
 伸一は、草創の同志と会うと、決まって言うことがあった。それは、「人生は、総仕上げの時が、最も大切である」ということであった。過去にどんなに活躍し、栄光の歴史を残したとしても、晩年になって退転してしまえば、結局は敗北の人生となってしまう。
 日蓮大聖人は、「譬えば鎌倉より京へは十二日の道なり、それを十一日余り歩をはこ(運)びて今一日に成りて歩をさしをきては何として都の月をば詠め候べき」(御書一四四〇ページ)と仰せである。
 「生涯求道」「生涯挑戦」「生涯闘争」の精神を持ち続けていくなかにこそ、三世永遠にわたる燦然たる生命の勝利がある。